テーブルの上と下
三人でカフェバーに入った。壁に設置してある、大きな鐘付きの時計がオレンジ色の照明を受けて、壮大な歴史を匂わせるという趣の店だった。カウンターには五人ほどスーツを着た男達が、テーブル席には一組のカップルが座っていた。BGMはレッド・ベリーだった。私達は奥のテーブル席に座った。アンティークを模した木製の四人掛けのテーブルだった。真由が一番奥で、隣りに先輩の男、私は真由の向かいに座った。
真由がコートを脱ぐと、Vネックの緑のセーターから白い首筋が真っ直ぐ伸びて、薄暗いテーブルの上に興味深い光を放った。煙草に火を点けて、煙に目を細めるようにして二人の視線を煙に巻こうと努力しながら、その光に見入った。私はそこにひとつの影があるのを認める。彼女の首筋に誰かが吸い付いたような痕跡があった。そんなに古くはないように見えた。犬が自らの縄張りとばかりに、電柱におしっこをかける時のことを思い出して、私は真由の隣りで古時計を眺めている男の顔を見た。
「ハルミツ君に聞いたよ」と真由は言った。
「なにを?」と私は言った。
「なんか気持ち悪い絵を部屋に並べてるんだってね。ハルミツ君だけずるい。わたしも見たいんだけど?」
「見に来たらいいよ」
「どんな絵なの?」と男が言った。
「ヌードデッサン」
「うそつき」と真由が言った。
「ほんとうだよ。裸の顔が並んでいるんだ」
「へー」と男が言った。
ワイシャツを着た女の店員が注文を取りに来た。私はビールを頼み、男はカルーアミルク、真由はカシスソーダ。マルゲリータとシーザーサラダとチーズの盛り合わせを真由が注文した。店員が去っていく時、先輩の男が彼女に熱いまなざしを注いでいるのを認めて、私は振り返ってみた。彼女は白いワイシャツに黒いブラジャーの線を浮かべて、腰を揺らしていた。
ドリンクを片手に、理由を無理やりこしらえて、何度も乾杯を交わしては笑い合う時間が続いた後、ハルミツを共通点に私と真由が話を始めた。真由はハルミツが大学のゼミの女の子達に快く思われていないのだと話した。
「しかも、わたしらのゼミの女の子ってみんな可愛いのよ」と真由は言った。
「真由を筆頭に?」と私は言った。
「そう、わたしを筆頭に。それでハルミツ君があの目でじろじろ見るでしょ。可愛い女の子がみんな、ハルミツ君のことキモイって言ってるのよね。仲良くなれば慣れるし、けっこう普通だけど、一見、気持ちわるいじゃない?」
「正直すぎるだけなんだけどね。僕は好きだよ」と私は言った。
真由の先輩の男が退屈し始めたのを感じて、私は話題を変えた。
「マサト君はサッカー部のキャプテンなんだよ。ちょーもてもて」と真由が言った。
「またサッカー部か」と私は言った。
「何が『また』なの?」
「いや、こっちの話」
「どっちの話よ?」とマサトが言った。
「サッカーより野球派なんだ。楽天のファンでね」
「へー」とマサトは言って、カルーアミルクを飲み、口の周りについたミルクを手の甲で拭いた。「じゃあ俺達とは合わないな。真由ちゃん、マネージャーになったんだ」
「あっそう」と私は言った。「こんなに可愛いマネージャーだと、すごい取り合いになっちゃうんじゃない?サッカーどころじゃないね」
「そうそう」とマサトは言った。「今も俺、勃起してるし。はっはっはっ」
「僕も勃起してるよ」と私は言った。
「なんか全然嬉しくないんだけど」と真由は言って、他の客がうらやむような笑い声を立てて、マサトと私を交互に睨みつけて見せた。
ブラジャーの黒い線がやってきて、注文した食べ物を置いていき、マサトが狂ったようにタバスコをマルゲリータにかけて食べて、辛い辛いとおどけたり、咳き込んだりしたの合図に、三人で黙々と食べては飲んだ。二杯目のビールに私が取り掛かった時、マサトが話を始めた。
「最近劇団に入ったんだ」とマサトは言った。「Jリーガーになる夢もそんなに遠い訳じゃないけど、俺は俳優になる道も諦めきれない」
「すごーい」と真由が言った。「いつのまに劇団に入ったの?」
「先月だよ。スポーンジエイジという劇団でね。友人の彼女の紹介でさ。ほんとにいい人達で、俺みたいにセンスある奴は稀だって言ってくれてね。だっはっはっ」
マサトの話が続いた。その主訴は「大物」になって名声を得るだろうという断言と、若く何一つ達成していない者だけが吹くことのできる、束の間の、揺るぎない大きな夢物語だった。彼が「大物」になっても、彼自身が大きく変わる訳ではなく、ましてや目の前にいる私達にとってはどうでもいいことだった。単に昔の知り合いが有名になったと時々自慢話をして、場を白けさせるくらいのものでしかないことが、彼には分かっていなかった。そのことが私自身の若い時を思い起こさせて苦々しかったが、微笑ましくもあり、また絶えず聞くことのできる、ベタな話だったので相槌を打つのは楽でもあった。
彼は少年のような大きな目で私の顔を見据えて、どんなに自分がすごいかということを話した。小学校の頃、学芸会でピーターパンの役を演じて担任に褒められた話や、高校一年の時にサッカー部のレギュラーを取ったとかいう話だった。
「足、痛い」と真由は言って、テーブルの下でもぞもぞしていた。
「でもさ、Jリーガーと俳優どっちがいいと思う?」とマサトは言った。
「うーん、悩むね」と真由は言った。
その時、テーブルの下で柔らかい何かが私の太もものところに伸びてきたかと思うと、股間の上に優しく乗った。うつむいて見ると、テーブルと腹の隙間に青色のタイツに包まれた足が伸びてきていた。足がこまねきするように上下して私の股間を撫で始める。
「Jリーガーもいいよね」と私は言った。
「うそつき」と真由は言って、私の目を意地悪く睨みつけた。多分、勃起していないと言いたいのだと解釈した。
「ほんとうだよ。スポーツ選手というのは男の憧れなんだ」
マサトは両肘をテーブルの上に置いて、私の方に身を乗り出して何度も頷いた。
「確かに捨て難い」とマサトは言った。
青色の足が何度も優しく動くので、私は少し硬くなった。
「確かに、かたいよね」と真由が言った。「Jリーガーもかたいよね。スカウトも来てたらしいし、俳優よりも今の時点では可能性が高いもの」
「でも本当になりたいのは俳優なんだ」とマサトは言った。
「そっか。でもやっぱりサッカー選手もいいと思うな」と私は言った。
「足フェチ?」と真由は言って、足で私の股間を押した。
「そうそう。サッカー選手の太い足にはうっとりするよ」と私は言った。
私はビールを飲み、その苦味で眉間に皺を寄せたという風にしながら、吹きだしそうになるのをこらえた。足先が私の股間を離れていく。
「いつもこういうことしてるの?」と私は言った。
「何を?」とマサトは言った。
「いや、いつも二人はデートしてるのかなって」
「今のうちに、真由ちゃんも俺をつかまえておいた方がいいよ」とマサトは言った。
店員がやってきて、おかわりをすすめたので三人ともそうした。店内は客が増えて、ほとんど満席に近かかった。煙草の煙がテーブルのいたる所から立ち昇っていた。
「片思いの方が何かといいのよ、ロマンチックで」と真由が言った。
「俺はごめんだね。片思いなんて」とマサトは言った。
「田中は片思いしたことある?」
片思い、という言葉で私の意識は大学一回生の時のアパートに飛んだ。木製の四角いテーブルの上に空になったワインの瓶とポテトチップスの袋の内側が開け放たれていて、銀色に光っている。ベッドの上に腰掛けて女は泣いている。涙を全く拭かずに私に抱きついて、彼女は首筋を吸う。目を開けたまま、女はキスをしてくる。香水の匂いがして、ワインの酸味が口移しされる。彼女は涙で濡れた目の奥から、私をじっと見ている。彼女はブラジャーを外し、ティーシャツを脱ぐ。「好きじゃないなら」と彼女は言う。「もう好きじゃないなら、わたしを抱かないで」彼女が私の手をつかみ、豊かな白い胸に置く。乳首がつぼみのように硬くなり、柔らかい肉感が私の股間を硬くする。彼女は顔を両手で覆い、私に背を向けて泣き崩れる。白く美しい肌に背骨が浮き上がっている。付き合って三ヶ月で浮気をした彼女は、全く気にしないから戻るようにと言う私の言葉を信じることができなかった。私は彼女が好きだった。彼女は元々、私が好きという訳でもなかった。そのことが明らかになった夜だった。「好きじゃない」のは彼女の方だった。朝方まで私達は我を忘れて何度も交わって、それから二度と抱き合うことはなかった。ナイーブな若い男女の片思い同士の恋愛だった。
「何考えてるの?」と真由は言った。
「片思いとかしてみたいなって」と私は言って、真由の首筋をちらりと見た。どう見てもキスマークだった。
女の悲鳴が聞こえた。テーブル席の中央で若い女がミニスカートの端を椅子の背もたれに引っ掛けて、白く光る絹の下着が露わになっていた。下着は食い込んで、ティーバックまではいかないが、尻の半分くらいが見えている。木製の椅子の釘か何かにスカートが引っかかっているようだった。酔っているせいもあってか、女は悲鳴を上げながら無理にスカートを引っ張るので余計に尻が揺れて、また悲鳴のせいで店内の誰もが彼女の尻に注視していた。
「すげー」とマサトは言った。
連れの男が若い女の尻を隠し、やがてスカートが下ろされて、彼女は床に座り込んで泣き出した。尻隠して、頭隠さずか、というダイスケの声が聞こえた。
「そろそろ出よう」と私は言った。
追加のドリンクをキャンセルして会計をした。ワイシャツの女がレジを打ち、私の金を受け取る。
「いやな店長だね」と私は小さい声で言ってみた。
「え?」と彼女は言った。
紙切れの代わりとばかりに、彼女はレシートを私によこした。
「ご馳走様です」とマサトは言った。
「いや、今日は邪魔してごめんね。劇団がんばってね。真由は片思い?がんばって。今度手相を見てあげるよ」
「ダブルデートの話、覚えてる?」と真由は言った。
「覚えてるよ」と私は言った。
アパートに戻って缶ビールを飲み、テレビを見るともなく見てからシャワーを浴びた。歯を磨いている時に真由からメールがきた。十一時を過ぎていた。内容は夕食の礼と、テーブルの下で起きたことに深い意味はないと念が押してあって、おやすみという言葉で終わっていた。
メールの返事をした後、ベッドに入って、牛丼屋の女に貰った紙切れを長い間眺めた。真由の勢いを借りて、メールをしようかと考えたが結局はやめた。紙切れに画鋲を打ち込んで壁に貼り付けて、電気を消してベッドに入った。
つづく
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