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愛のあるエッチ

 酔いが醒めるのを待った。目の前の電柱が、北東の方角に少し傾いていた。その角度を目で推測し、無数の電線の行方を追う自分がしばらく続いた。歩行を妨げる酔いの効果は次第に薄れ、箸が転がっても可笑しい、幼い頃の心持ちが戻ってくるのを感じて私は立ち上がり、足を進めていった。
 HEPFIVEの前で左折し、次の十字で右折、ケンタッキーを右に横断歩道を渡り、アーケードを真っ直ぐ進む。松屋を過ぎて横断歩道を渡り、右折して直進。金色のかんざしを黒髪に挿した女の巨大な顔が出迎えた。白い顔に黒目がちの瞳、でかい鼻、狭い額に広い頬。私はお初天神通りに入っていった。
 通りは人々で溢れていた。それぞれの理由で頬を赤らめた人々、割引チケットを手に立ち尽くしている店員達の疲労の色、重ねに重ねられた無数の店看板と売り言葉。抑圧を解き放った中年の男達の群れ、その笑い声と脂ぎった顔。若い女が大きな黒いサングラスをかけて芸能人気分で闊歩し、頭上には「お初と徳兵衛、恋の街、お初天神で、永久の愛を誓う、お初天神参道、恋のおまいり」という文字と、お初と徳兵衛の絵が描いてある垂れ幕が、間隔を空けて何十枚と垂れ下がっていて、辺りには嘔吐物と小便が染み付いたような臭いに混じってソースの匂いが漂っていた。
 ラーメン屋がある角で客引きをしていた女が私に寄って来た。パーマをあてた、五十代くらいの恰幅が良い女で、真っ赤な口紅を濃く引いていた。
「お兄さん、いっぱつ抜いていかない?気持ち良くなって帰ってよ」と彼女は言った。「可愛い子いっぱいいるよ。エッチしていってよ」
 彼女は黒いビニールジャンバーのポケットから、写真を取り出して見せた。長い茶髪をした細い女がミニスカートから白い太ももを出している。胸の谷間は日常からはかけ離れたくらい露わで、小ぶりで形が良いのが分かるくらいだった。
「美人だね」と私は言った。
「待ってよ、お兄さん」と彼女は言った。「エッチしてってよ。お願いだから。二万でいいから」
「この子より、お姉さんを抱きたいな」と私は言って、彼女の肩に腕をまわした。
 彼女のおでこと鼻の下に隠しようのない皺が刻まれているのを私は眺める。手を腰にまわすと、だぶついた腹肉が腕にどっしりとのっかってきた。
「何言ってるの」と言って彼女は笑った。「もっと若くて美人な子がいるから。わたしはもう客はとらないの」
 若い頃の彼女が、自信たっぷりに身体を売って金を手にしていた頃を思い浮かべた。皺が消えて、贅肉が引っ込み、少女のような面影が彼女の中心部分に宿っているのが見える。
「お姉さんとエッチがしたいよ」と私は言った。
 彼女は私にからまれたまま、一緒に歩いてきた。
「わたしじゃなくて!お兄さん、たまってるんでしょ?」彼女は私の股間を撫でた。
「お姉さんとだったらしたかったのに、残念だよ」と私は言った。
「わたしはいいから!」と彼女は言って、突如、がははっと笑った。「お兄さん、マジで、お願い。お願いだからエッチしてってよ」彼女は急に声をひそめて私の耳に口をつけそうなくらいに寄って言う。「この写真の子、実はわたしの娘だとしたらどうする?」
 嫌な臭いを発しているペットショップの前で私達は別れた。
 二人の絵、髪が乱れたお初の白い顔と、隣りで彼女を見つめる徳兵衛の愛の視線が微妙にずれてしまっている垂れ幕が途切れたところで、私は左に曲がった。
 横断歩道の前で、若い女が上目遣いで男達に視線を送っていた。ピンク色のコートを着て、黒い柔らかい生地のミニスカートにタイツ、黒いブーツ。茶髪のストレートヘアに大きな目玉をしていた。身に付けているものはどれも上品で高価に見えたが、全体としてバランスが取れていない印象を与えた。
 彼女は鞄を腕にかけて、その手に携帯電話を握り、誰に話し掛けることもなかったが、目と雰囲気は饒舌に語りかけていた。
 視線を受け止めて、真っ直ぐ彼女に向かって歩いていった。
「何か言いたそうな顔だね」と私は言った。
「ゴムあり、三万」と彼女は言った。
「いいよ」と私は言った。
「ほんと?」女は二十歳くらいに見えた。上目遣いと、男が喜ぶであろうと確信しているような笑顔を浮かべて、ぴょんと軽く跳ねた。私は特別喜んだ素振りはしなかった。
「早く行こうよ」と私は言った。
 タクシーに乗ればワンメーターでホテルに行けるという内容を彼女は口にしたが、私はそれを流した。それで彼女の演技が終わり、途端にさっぱりとした言動に変化した。私達は横断歩道を渡り、ホテル街に向けて歩いた。
「可愛いのに彼氏いないんだ?」
「半年前に別れた。べつに、いなきゃいないでいいし」と彼女は言った。
「こういうのいつもしてるの?」
「久しぶりだよ。三ヶ月ぶりくらい」
「三万て高くない?」
「普通でしょ!」彼女はムキになって、「エンコー」している友達も皆、この値段でやってるし、「普通にわたしらみたいに可愛い子」はこれより下げるのはありえない、ということを力説した。
「エッチは好き?」
 女はしばらく沈黙して歩いた。おっぱいねーちゃんなら、どう答えるかを想像して、こみ上げた笑いを噛みしめた。
「まあまあかな」と彼女は言った。
「そうなんだ。なんかつまんないね」
「わたしはツンデレだから」と彼女は素っ気なく言った。
「どういう意味?」
 普段はこんな風だけど、ベッドの上では甘える方だということを彼女は言った。
「満足させる自信ある?」
「はあ?なんではじめる前からそんなこと言うの?ありえないんだけど」と彼女は言って、ようやく私の顔を見た。「ノーマルでしょ?変態なのは無理だよ。でもそうじゃないなら皆喜んでくれるよ。なんかいじめて欲しいとか、そういうキモイ男も時々いるけど、そんなん無理だし」
「こういうのだから、そういう要求するんじゃない?」
「ああ」と彼女は言った。「わたしらにしか頼めないんでしょ?彼女とか奥さんには言えないこと言ってくるんだよね」
 彼女は常に優位なところに自分を置こうと背伸びし、そして男の前では常に自分が優位だと信じて疑わないような傲慢さと危うさが同居していた。私の新たな質問に彼女は十九歳で学生だと顔を背けて答えて、同じ質問を向けてきたが私は答えなかった。お金を払うほどの価値があるのかな、と私が問い掛けてから女の足が少し早くなった。
「胸大きいね。それで挟んだりするの?」
「それくらいはいいよ」女は自信ありげに口角を持ち上げた。
 ホテルの前に着くと、女は早くこの場を流して事に持ち込み、金を手にしなければならないという風に、先頭に立ってホテルの入口に飛び込もうとした。
「やっぱりやめるよ」
「うそ?なんで」
 私が踵を返すと彼女はおとなしく横についてきた。
「ありえないんだけど。それならもっと早く言ってよ!」
 彼女は携帯電話を開いて、慌てた様子で何かをチェックし始めた。
「ごめんね。酔っ払ってるみたいだ」
「絶対そう」
 私の方は始めからだったが、彼女にとっては利害関係のない男女の散歩に変化したことで心底疲れた様子に見えた。出会い系サイトでも客を探しているが、今の時間で捕まる男はアホばっかりだとかなんとか、一人でごにょごにょ言っていた。
「疲れさせちゃったみたいだね。でも君が可愛くないとか、魅力的じゃないということじゃないからね」と私は言って頭を撫でた。
 彼女はウン、ウン、ウンと三度相槌を打った。
「最近何が楽しい?」と私は訊いた。
「全部楽しい」彼女はきっぱりと答えた。
「あのさ」と私は言った。「愛って信じる?」
「あたりまえ!」間髪を入れずに、彼女は言った。
 横断歩道の前で立ち止まった。信号が青になり渡ってしまえば、私達は出会った場所に戻ることになる。
「エンコーでするのと彼氏とするエッチって違いある?」
「全然違う」と彼女は言って、私の顔を見た。悪巧みをしている時のような表情をしている。「愛のあるエッチとは全然違うよ」
「そっか」と私は言った。「君と愛のあるエッチをしたかったよ」
 彼女の頬が赤く染まった。「いや」
 横断歩道を渡りきると、彼女は言った。「じゃあね」
「バイバイ」と私は言った。


つづく

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