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黒いライム

 黒い机の左端にライムが一つ置いてある。眠る前に椅子に腰掛けて、そのライムを握るのが習慣になっていた。今では爪で叩くとコツコツと音がするほどの堅さを得て、弾力を失い、色は緑から茶を経て、黒に急いでいる。目を閉じて形を味わうように指を全体に這わしていく。車が走り去る音さえも、寄せては返す波の音のように胸に迫る深夜。商店街から響いてくる、酔いに我を失った女の甲高い声や男の怒鳴り声さえも、人類が長い夜を耐え忍んできた記憶を宿す慟哭となって胸に去来する。まぶたの奥で空っぽに終わった一日を反芻しているちっぽけな自分に出くわす時もあった。仕事でも辞めようか、と私は思う。形式的な人間関係と休憩時間に催される上司の悪口、オフィスラブ。親切のための親切と良い人であるための良い行い。微かな戯れと馴れ合い、嫉妬とプライド。仕事量を断固として維持するための理屈と詭弁、無意味な指示と脈絡を欠いた八つ当たり、とってつけたような飲み会の戯れ。それは自分自身の姿でもある。それらを縫うように走る微かな、目に見えない、声にならない響きに耳をすませる。そこでは誰もが迷っていた。果たされない約束と夢に狼狽して、母親の胎内を懐かしんで。純粋なものを心の奥深くに隠し持って、ちらちらと顔を覗かせながら。転職する理由も勇気も私にはなかった。
 ハルミツが再びライムを持ってきた夜、私は二つのライムを机の上に並べた。若いライムは、瑞々しく弾力に富み、握り締めるといい匂いがする液が滲み出てきた。表面はビニールのように艶があり、滑らかで、屈託のない緑が年老いたライムをあざ笑うかのようだ。私は若いライムを錆びた包丁でずたずたにして、大きなグラスでジンライムを作って飲んだ。ジンライムのせいなのか胸が締め付けられるように痛む中、老いたライムに手を差し伸べて、両手で包み込み、温める。それは祈りに似ていて、私はすっかり醒めきって笑った。窓を開けて、暗く静まった商店街の外灯の連なりに向けて、黒いライムを投げ捨てた。それは闇に吸い込まれて、一瞬、夜の中に消える。近くの民家の屋根でドンと音が鳴る。彼は死んだ。
 その夜は月曜日で、メールもなく夜の九時過ぎにハルミツは私のアパートにやってきた。お土産のライムを渡す手に力もなく、「よう」という掛け声もない。もはや団らんのない家庭を思わせる形骸化した目配せ。疲れきってエネルギーの滞った不機嫌な表情。亭主を迎えた嫁の気持ちで私は彼の心に響く言葉を考える。
「ご飯とお風呂とどっちにする?」と私は言った。
 返事はなかった。
 ハルミツはベッドの上に腰掛けて、右上、机の上方に視線を固定していた。多分、自分の描いたスケッチを見ているようだった。
「その顔だと、ご飯がいいかな?」と私は言った。
「ひとりで食ってろ」とハルミツは言って、我に返ったのか口の前を手の平で擦り、「いや、腹は減ってない」と言い直した。
 ハルミツが長い沈黙を破るのを待ちながら、待っていないかのようにテーブルの上を片付けて、皿を洗った。ハルミツがレナード・コーエンの「ハレルヤ」をかけた。私は曲に耳をすませて、皿を洗って拭いて、棚に戻した。流し台を洗い、冷蔵庫の表面を布巾で拭いて、それから歯を磨いた。突然、寿司が食いたくなってくる。歯を磨いているといつも何かを食べたくなるのだ。曲が終わると部屋は再び沈黙に包まれた。
「土曜日、真由とご飯食べたよ」と私は言った。
「今日大学で聞いたよ」とハルミツは言った。
「あっそう」と私は言った。「男前のサッカー部とデートしてたよ。もてるんだろうね、真由は」
 ダブルデートの日取りが二十四日になったことを私は確認した。ハルミツはわざわざ言わなくても知っているという態度で、ふん、と鼻を鳴らして、小指で耳をかいてみせた。
「真由は誰を連れてくるの?」
「知らない」とハルミツ。
 ティーバックの緑茶を入れて、ハルミツに手渡した。自分の分も入れて、私達は部屋で向き合って、音を立てて緑茶を飲んだ。湯呑みからすする音で、何か言葉にならない会話をしているみたいだ。やがてハルミツが細い声に舌打ちを入れながら、眠れない夜について話し始めた。胸が強く鼓動して眠れない、一晩中、ある考えが浮かんで消えない、というような抽象的な話だった。私は具体的に話すよう沈黙で促した。
「好きな人がいる」とハルミツは言った。
「誰?」と私は訊いた。
 そこからハルミツは制止できないような勢いで、好きな女について語った。話が終わると私は彼の肩を叩いて笑うことになった。
「叩かなくていいから」とハルミツは言って笑った。
 ハルミツに身軽さが戻ってきたので、彼を外に誘った。回転寿司屋に行ってビールを飲み、寿司を食べた。何枚食べれるか競い合い、ハルミツが勝ったので、百円皿のみに限定してご馳走した。


つづく

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