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Home〜家族の歴史〜

 サンパウロ市は、1週間前から緩くロックダウンになっています。エッセンシャルな店は開いていますし、外出禁止令が出ているわけではありません。でも、公園がまた閉まってしまったので、週末恒例のウォーキングは外の道を歩くしかありません。いつもの公園に続く一本道はランナーで溢れ、公園に辿り着かなくとも閉まっている様子が窺えました。

 今日は快晴で気温も高めで30℃くらいあったのでしょうか。少し歩くだけで首筋に汗が伝いました。でも、湿気がない分爽やかで、歩きやすい陽気でした。ブラジリアンカラーの植物も元気いっぱいに咲き誇って、街路樹や道に咲く草花を堪能しながら気持ちよく歩くことが出来ました。

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 マーケットで昼食用の買い物をしてから、ある所に立ち寄ることにしていました。大学で建築を学ぶ娘の課題で、先祖の歴史やその住まいについて調べ、写真を手に入れる必要があると前々から言われていたからです。ちょうど夫が子供時代に住んだ家が近所に残っているというので、行ってみることにしたのでした。

 義父母が新婚当時に住んだ小さなアパートは、私がいつも買い物をする朝市のすぐそばにありました。歴史を感じるそのアパートを目の当たりにして、私はいつか義母が語ってくれた昔の話を思い出していました。

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 時は1950年代終わり。義母は今は亡き義父と結婚して、このアパートで新婚生活をスタートさせました。義両親は、近くに住む義理の姉が引き取っていたのでひと安心。新婚カップルの楽しみは、週末の文化協会での日本映画鑑賞だったそうです。

 ところが、ある頃から週末ごとに義両親が新婚夫婦の住むアパートを訪れるようになったそうなのです。実の親子で性格も良く似た母娘の折り合いが悪くなり、二人は息子を頼ってアパートに逃げ込むようになったというのです。

 普通の週末であれば嫁である義母も、快く義両親の相手をしていたそうです。でも、映画鑑賞がある日は勘弁、と思ったのでしょう。さぁ、家を出よう、と思っていた矢先にチャイムが鳴って、その時だけは居留守を使ってしまったというのです。仕方なくトボトボと家に戻って行く二人の様子を、アパートの窓から何とも言えない気持ちで見ていたと。。

 それから数十年経って「あの時は申し訳なかった」と嫁の私に告白する義母に、何だか胸がキュンとしてしまいました。異国の地でがむしゃらに頑張って温かい家庭を築いた若かった二人。少ない楽しみの一つを奪われたくなかったのでしょう。息子である夫にも話すことが出来なかった過去。そこまでしてでも観たかった映画は、やっぱり裕次郎だったのでしょうか♡

 そのアパートに住んでいた時に第一子である私の夫が誕生しました。その後義父の仕事の都合上、サンパウロ市近郊の街に引っ越すタイミングで、両親を引き取ることになったそうです。

 新婚生活を送ったアパートがあるその通りを気に入っていた義父は、サンパウロ市に戻ってからも同じ通りに一軒の家を見つけて来て一家はそちらに移り住みました。家はアパートのちょうど真向かいにあり、やはり知らない誰かが今でも生活を営んでいました。

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 通りのこちら側に連なる家々を一人のオーナーが所有し、義父は初代オーナーのお孫さんから家を借りたとか。1929年に建てられた古い家の外観はほぼ当時のままだそうです。唯、今では一軒の家を半分に分割して、二世帯が入居しているようでしたが、当時は一軒丸々分のスペースを一家で使っていたそうです。引っ越し繰り返すうちに子供は3人に増えて、7人家族で賑やかに暮らしていた時代。ピアノを習い始めた子供達のために、ピアノ室もあったそうです。

 それから数年して、夫の祖父が亡くなった後に引っ越した次の家は私も知っています。そちらで祖母、そして義父が亡くなり、夫と義弟も独立、義母と義妹の女性二人暮らしとなった家。

 引っ越した当初は長閑だった場所も、年々治安が悪化、何度か強盗の被害に遭うようになっていました。ちょうどうちの息子が生まれた直後、電気の検針員を装った強盗に押し入られたことをきっかけに、二人は新築の25階建てのアパートに引っ越し今に至ります。

 思い出の家を見学した帰り道、夫が高校時代まで通ったピアノの先生のお宅の前も通りかかりました。その当時その界隈では裕福なお宅として有名で、そのお屋敷のあった通りには、今でも先生のお父様の名前が付いて残っています。(Carlos Petit 通り。)

 中学まで通ったピアノのレッスンが苦痛だった私とは対称的に、夫はピアノのレッスンが楽しみだったそうです。既にかなり年配だった先生と、物理や宇宙の話に花が咲いたとか。先生は大事にされていた愛読書を譲って下さったりもしたそうです。

 夫の興味を伸ばして下さった先生。夫は後に大学で工学を学ぶ道を選びました。その後は日本の進出企業(電機メーカー)に就職、数年経って東京本社に勤めていた私と出会うことになったのです。

 娘の課題をきっかけに紐解いたファミリーヒストリー。特に、若かった義母が3人の子供たち、義両親や義父のために忙しく働いていた様子が目に浮かぶようでした。今では実の娘の言いつけを忠実に守り、安全で静かなアパートからほぼ一歩も外に出ず、1年間も自粛生活を続けている義母。昔の暮らしを懐かしむこともあるのでしょうか。


【本日のサイドミュージック】

 NYのジャズピアニスト、大江千里さんのHome。「人には住む家が必要」と、Stay homeが始まって間も無い昨年4月、National Rebuilding Month に世界に向けて呼びかけられました。


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