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ウズベキスタン風茄子のサラダの作りかた。

住宅街のまんなか、それでいて全く人気のないバス停でバスを降り、小さなディスプレイの地図を頼りに僕たちは歩いた。目指す宿は、看板もなく他と変わらないアパートメントだから、住所だけが頼みの綱なのだけれども、通りの名前の看板は、この国の眩しい太陽に晒されて判読し難く色褪せていて、住宅の番号はところどころ欠損している。同じような景色を、結局どのくらい歩いたのか判らない。目当ての呼び鈴を鳴らし、遠くからこちらに向ってくる管理人の足音が扉の近くまで聞こえた時、彼女はふうと大きく息をした。

一週間が過ぎると、その路地もすっかり旧知の親友みたいな顔に変わる。角を曲がると、小さな魚屋があって、その先にはバールと小さい食料品店(店主はウーゴ)が並んで、坂を登ると、その先はもう海だ。

朝起きると、手短にシャワーを浴びて身支度をして、彼女が薔薇の化粧水だの日焼け止めだの真珠みたいな色の粉だとかを厳然とした秩序に従ってひとしきり塗ってゆくのを、バルコニーの手摺りにもたれて眺める。僕は煙草を吸いながら。(他に一体どんな選択肢がある?)

ウーゴの店の隣のバールで、濃いエスプレッソを飲む。カップの底に沈んだ砂糖の澱を匙でそっとすくって、口に運ぶ。僕たちは黙って海までの道を歩き、途中のスタンドで熱々の小さなパイを買う。これは地元のスナックで、白い(フェタのような)チーズが入っていたり、潰したえんどう豆が入っている。僕はそれを一つづ買い、彼女は蛸のパイを選んだ。

来年、日本に行くんだ、と店の青年がまだ温かな紙袋を手渡しながら言う。ガールフレンドがサガミハラにいるんだ、彼のその甘やかな発音に、僕は微笑む。彼女は海を見ている。

眩しいひかりが橙の色味を伴って、薄闇が溶けるみたいに広がり始めて、夕刻だということを知る。

フライパンに水に浸しておいた米と、同量の水(ちょうどマグカップ一杯分で計った)を入れ、火にかける。このアパートメントに備え付けられているような薄っぺらで安価な鍋のどれよりも、米を炊くにはフライパンがいい。ふつふつと沸いてきたら、さっとかき混ぜ、アルミフォイルを被せて蓋にする。弱火に落として5分経ったら火を止め、火から下ろしておく。

鰯はよく洗って、残っている鱗を包丁でこそげ取って、腹をさいて内蔵を出してまたよく洗い、代わりにくし切りにしたレモンを詰めておく。オリーブオイルをたらし熱くしたオーブンでこんがりと焼いて、醤油をかける焼き魚風をメインに。

付け合せは、以前ウズベキスタンで食べた、茄子とディルのサラダを作った。3ミリぐらいの薄切りにした茄子を、塩できりっと濃いめに味付けした溶き卵をくぐらせて、こんがりと濃いきつね色になるまで揚げ、熱いうちにざく切りにしたディルをたっぷりと和える。味付けはシンプルにも、これだけ。作りたてでも、冷めてしっとりしても、どちらもおいしい。それに丸々とした濃く赤いトマトを、ざくざくと刻み、少しの蜂蜜とバルサミコ・ヴィネガー、それに醤油をまぶしてマリネにしておいたものと、セロリを刻んでにんにくとごま油であえた漬物もどきも。ドライトマトで出汁をとって刻み、味噌を溶き入れて、もみ海苔とバターを加える。味噌汁はこれでよし。

傍らでずっとキーボードを叩いていた彼女は、鰯の焼ける香ばしい匂いが立ち始めると、立ち上がって気に入りのディナープレートを選ぶ。ほかほかと湯気を立てている白米をそっと大事なもののように、匙ですくってよそう。不揃いなワイングラスを並べて、僕はつめたい白ワインを注いだ。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。