語る指の動き

 物書きは高校生の頃に始めたのだが、一番初めは原稿用紙、日記を書き連ねていたのも原稿用紙だった。
 高校後半期、少数精鋭の学校非公認の文芸部を友人とやっていた頃はパソコンで物書きをしていた。紙でやっていた頃は漢字が分からず調べることも多くなによりスピードが遅かった。パソコンで二回キーボードを打つもしくはそれに加えスペースキーで変換するだけの文字を紙であれば何本もの線で構成される文字を一つ一つ書き連ね、重ねていかねばならない。文章がおかしくなれば途中に文字を入れて分かりやすく意味の通るものにするわけだがパソコンならクリック1つで入れたい所にいけて入れたい分だけ気持ちの分だけ文を足していける。しかし、その作業を紙でするなら原稿用紙の空いたスペースに入れたい文字を入れたい部分に「く」と書いて入れたい文字を書くという作業をやる。空いたスペースは有限で足せる言葉は有限、言いたかった細かいエトセトラは頭の中で切り離して重要な部分さえ簡単な言葉で書いてしまう他ない。
 高校の最後にスマホを買ってもらってから私は外でも物書きができるようになった。そんな変わりやしないと思っていた執筆生活は様々な誘惑に晒されることとなった。TwitterやLINE、YouTube、スマホの中には誘惑が多い。科学を論じるには良いが自作小説の登場人物達が動くのを記録するには少し向かない。自作小説の彼ら彼女らは作者である私が作り上げた時点で、産み落とした時点で私の手から離れていて自由にさせてやらないといけないけれどYouTubeなんかを見ながら彼ら彼女らを記録しているとどうも挙動がおかしくなる。彼ら彼女らの個性を損ねて作者のやりたい動きを作者の考えを押し付けてしまう、それはだめだ。産み落とした時点で物語の作者が望む終点と違う方向に行ったとしても愛すと決めて書いているのだからたとえ作者にとって都合の悪いキャラクターになったとしても愛してやらねばいけない。それが愛なのだから。
 そういえば最近の話、 「 #作家は経験したことしか書けない 」 という ハッシュタグが流行った。想像力観察力が人並み以上でなければ経験していないことはペラペラとするだろう。よく嘘をつく時は真実を混ぜろという話があるように自身の経験を混ぜつつでないとペラペラの感情のこもらない駄作ができるだろう。尊敬するねこふじかおる先生も「作家は経験と知識がないと人の感情を揺り動かすようなものが作れない」と著作の中でおっしゃっておられる。
 さてはて私自身の物書き活動についてだが、最近は書いていない。noteで己の中の闇ばかり零して自身の未来を穢している。私はこれから続けられる自分が愛せる何かしらの活動をしなければならない。私の友人や彼女は努力しているからしてなにかしら磨き続けなければならない。嘘の知識だけでは正直食っていけない。物を書く才能があると言われるからどうにかそれで食べていきたいのだ。生涯なにかしらの接客バイトは続けながらが良いと思っている。

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