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バースデーケーキをゆっくり運んだ-妊娠振り返り記録

出産予定日まで、あと10日を切った。
お腹の中の子はまだ産まれる兆候が全然ない。心配性の母に気をつかい、心の準備をする時間をギリギリまで与えてくれているのかもしれない。
せっかくなので、妊娠期間に感じたことを忘れないように書いておこうと思う。

初めての妊娠を経験して、知らなかったことをたくさん知った。想像以上にあっという間だった日々は、毎日が未知のことばかりだった。

つわり-好きとか嫌いとか、自分で決めていると思っていたけれど

つわりで自分が何を食べたいのか(食べられるのか)わからなかったとき。
テレビ画面にうつる食べ物のシーンさえ苦々しく、食べる喜びを失うつらさを味わった。お惣菜がずらりと並んだコンビニの棚の前で、食べられるものがわからなくて途方にくれた。

今まで好きな食べ物、嫌いな食べ物は自分の意思で選んでいると思っていたけれど、妊娠してからはただひたすら身体の指令に従って摂取しているような感覚だった。

食べ物の趣味という些細なことでも、今までの自分から逸脱していく、自分自身がコントロールできなくなっていくという体験は、自分の輪郭がぐにゃりと変わってしまったように感じられる出来事だった。ホルモンの前で、私の今までの趣味嗜好などあまりに無力だった。

この自分自身の変化についていけない、自分の思い通りにいかない、という感覚は妊娠期間中にずっと味わい続けたことだった。

こうして書くとただマイナスの出来事に見えるかもしれないけれど、もともと自分の心配性で考えすぎる=頭でっかちな部分をどうにかしたいと思っていた私にとっては良い経験でもあった。

いい意味で「まあ仕方ないか」と諦められるようになったし、何かあったときは自分の状態を客観的に見て原因を分析することで、そこそこのところで考えを切り上げることができるようになった気がする。
(例えば、気持ちが落ち込んでいる時はホルモンバランスのせいかもしれないし今たまたまそういう時期なのかもしれないから、必要以上に深刻にならないようにしよう、と意識するなど。)

ぜんぶ自分で仕切ってるなんて思うと自分を責めたくなる。力が及ばない範囲があると自覚することで、考えても解決しないならとりあえず寝るか…という気持ちになれた。

自分の身体が自分のものじゃなくなっていくような、もやもや

どんどん大きくなるお腹に一番驚いていたのは自分自身だったと思う。頭のなかの自分と、鏡にうつる自分のギャップがなかなか埋まらなかった。

私はわりと早い段階からお腹の膨らみがわかりやすい方だったと思う。そのせいか色んな人に「お腹大きいね!」と言われることや、お腹を触られることに初めはとても戸惑った。
今まで自分の身体は自分のもの、とてもプライベートなものだと思っていたけれど、妊娠したことで言及したり触れたりして良い"公のもの"になってしまったような気がして、恥ずかしかった。

勿論相手に悪気は全くなく、むしろ労りの意味で言ってくれる人がほとんどで、それが伝わってきた時はとてもありがたかったし、妊娠前は私も妊婦さんに同じように接していたと思う。

未熟な自分は、このなんとも言えないもやもやとした感情は経験しなければ思い至ることができなかった。
(このあたりの感覚は本当に人それぞれだと思うので、この感情はあくまで私が感じただけのものに過ぎないけれど。)

そんな中でも親しい人に、無事にうまれてきてね、と念を送るように触れてもらったときは、とても嬉しくてありがたかった。私だけでなくお腹の中の子をいたわってもらえることが嬉しかった。

ただ歩くだけでも初めて気付くこと

お腹が大きくなってくると、ゆっくりとしか歩けなくなった。
大きな交差点は渡るのに時間がかかるので、信号が青になった瞬間に渡り始められるように、その前の青信号は見送ったりした。
転ばないように慎重に歩いていると、歩道をスピードを出して走る自転車や、止まらずに道を曲がってくる車が凶器みたいに怖かった。

もしかしたら、また歳を重ねて足腰が弱ったときも、こんな気持ちになるのかなと思った。

思えば今まで大きな怪我も病気もしてこなかったので、長期にわたって身体的な制約がかかるという経験自体が初めてのことだった。

ただ道を歩くだけでも、人それぞれの状況によって全く違う負荷がかかっている。
気付いてみれば当たり前のことだけれど、実感することができてよかったことの一つだ。

わたしの中の、"あの子"

自分の身体の中で、もう一人の人間ができていく過程というのは、今でも信じられないような不思議なものだった。

初めて検診で心臓の点滅を発見してから、その存在はだんだんと人間らしい姿になっていった。

まだ胎動も感じられない頃は、検診のエコーだけが胎児の存在を認識できる瞬間だった。それでもはじめは自分のお腹の内側と、画面にうつる三頭身の生きものがいまいち結びつかなかった。

初期の頃の検診の帰り道。
手足を上下に動かしはじめた小さな存在のことを思い出しながら、ふと、「あの子がいなくなったら、さみしいなあ」と思った。
そして、ああ、"あの子"しゃなくて、"この子"か…と、自分の下腹部を見下ろした。

今いちばん近くにいる、距離ゼロのところに確かにいる、小さな存在。
そのうち"あの子"じゃなくて"この子"と思えるようになるのかなあ、とその時はまだ実感がわかないふわふわした頭で思った。

その後何ヶ月かかけて"あの子"は"この子"になっていった。
今は"あなた"と呼ぶのが、一番しっくりくる。

自分を大切にすることの意味が変わった

幸い大きなトラブルもなく過ごしてこられた妊娠期間だったけれど、それでも一度、不安でたまらなくなり夜遅くに病院に電話したことがあった。

胎動を感じ始めた頃のこと。
初めての胎動は、お腹の中で小さな魚がピチッとはねたような感覚だった。
胎動がわかると、リアルタイムで胎児が生きていることが実感できてとても安心した。そして胎動が感じられない(少ない、弱い)時には、とても不安な気持ちになった。

ある日仕事が忙しくくたくたになってしまった夜、いつもより胎動が少なく弱々しいことに気づいた。
ベッドに寝そべりじっと下腹部に意識を集中させながら、散々悩んだ挙句、どうしても不安が拭えず夜遅く病院に電話した。
何かあったらと思うといてもたってもいられなかった。
結果的にその日は自宅で様子を見ることになった。
次の検診で無事が確認できた時は、涙が出そうなくらいほっとした。

その頃からお腹の中の命に対して、責任を自覚するようになったと思う。
自分を大切にすることが、その内側のもう一つの別の命を守ることに直結するんだと思うようになった。

知り合いの出産経験者の方にかけていただいた言葉で、とても印象に残っているものがある。

「産んだ後は、あなた以外でも誰かがお世話をしてくれるかもしれない。でもお腹にいる間は、守れるのはあなただけなのよ。だから無理しちゃだめよ。」

仕事中など、つい目の前のことでいっぱいいっぱいになり無理してしまいそうになった時、この言葉を思い出すと、いちど落ち着こう、という気持ちになった。

無理をしないで自分を大切にするということが、今までと違う意味をもつようになった。
いつのまにか、私は、私のためだけに生きる生き物ではなくなったみたいだった。

バースデーケーキをゆっくり運ぶような日々

妊娠期間は、皆に見守られながら、お皿に乗った特大のバースデーケーキを倒さないように一人で運んでいるみたいだった。

周りの人たちがおめでとう!と声をかけてくれる中、そろりそろりと慎重に歩く。
転ばないように、バランスを崩さないように、ろうそくの火が消えないように。
祈るような気持ちで。

近道はなくて、初めてのルートで、主役が待つテーブルまで一発勝負で歩いているみたいだった。

妊娠して、無事に出産すること。人それぞれの違う過程があって、そのすべてが決して当たり前ではないということ。

振り返ってみると自分の身体のことや考え方、過去や未来のこと、家族のこと、今までとは違う視点から、たくさんのことに思いを巡らすことができた日々だった。
10ヶ月前とは、色々な意味で変化した自分がいる。
ここまで無事に成長してくれた、お腹のなかの子のおかげだ。
この道中に考えたことや経験したことが想像力の材料になって、いつか自分や周囲の人の役に立つことができたら嬉しいなと思う。


いよいよ、その時はもうすぐ。
ろうそくを吹き消すタイミングは、誕生を迎える小さな主役の気分次第だ。

部屋の電気を暗くして待とう。

ろうそくが消えて電気をつけたら、
きっと賑やかすぎるくらい賑やかな、新しい未知の生活がはじまる。



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