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聖なるニワトリとべジータ・ベータ

かつて私はニワトリであった。

だから聖なる夜にもかかわらず私はあえて「おはよう」と鳴き叫んで自己主張したい。

若い頃の私は自己主張欲が旺盛であった。それはSay欲にも通じるところがあって、とにかくなにかを発言して主張したい、コケーッ!コッコッコッ、と強気な発言をしていきがりがちであった。

そんな私も今となっては骸(むくろ)、それもホクロのあるムクロだ。

「ほくろ」は名前がダサいから「シュナイダー」みたいなカッコいい名前にすべきだと思っているような、そんなムクロである。

私は今日も小気味よく亡くなってる。

人々にとって今宵は聖なる夜であり、イエスマンの降誕を祝う日でもある。

私や私の同胞たちの骸は今や人々にとって欠かせないものとなっていて、今日も人々は私のことを「からあげ君」と呼んだりしながらクリスマス商戦を楽しんでる。

生前の私はSay欲も旺盛で、卵をたくさん産み落としてきた。

人々は私の子供たちを、産まれる前に焼いたり茹でたりして食べてしまう。私はとても悔しかったがそれでも人々の力になれるのなら、と思って耐えてきた。

そんな私自身も人々の手によって亡き者にされ、今となっては深刻なまでにムクロってるわけなのである。

私は決して聖人君主というわけではなかったが、56されるほど悪いことをした記憶もない。

私と人々、どちらが穢れた存在なのだろうと時々思う。どうにかして「聖なる夜っていうか、正直かなり穢れた夜だよね」と言って人々の目を覚ましてやりたいのだが、私はもはや鳴き声を上げられない状態になってしまい、ただただ無念である。

そんな穢れた人々の中にも、わずかながら純粋無垢な心を持つ者もいる。

人々は彼らを「ベジタリアン」と呼んでいるのだが、その中でも極めて純粋、それどころか純粋な悪とも言える心を持つ人々を私は親しみを込めて「べジータ」と呼んでいる。

私は中途半端に穢れた人々に食されるよりも、べジータのような純粋悪、食うか食われるかの世界を一途に求めてやまないような、そんな人々に食べられたいと思っている。

人々は私を亡き者にして食すことに対して何かと言い訳を言う。「言い訳するな!」と叱り飛ばしてやりたいがそれでも何も考えてないような馬鹿な人間どもに比べたら、罪悪感や葛藤を抱くだけマシなのかもしれないと思うこともある。

何はともあれ私はチキンだ。

そんな臆病者の私は決してべジータのような戦闘民族になることは出来なかった。争いを嫌うチキンな私は自由競争とか、資本主義社会とか、クリスマス商戦みたいなものがしっくりこなかった。

今は亡き私であるが、生まれ変われるのなら鳥でも人でもなく、大魔王になりたいと思っている。緑豊かで地球にやさしい、エコロジックな大魔王になりたいと思っている。

緑色の大魔王なんてよほどの偏食家でもない限り誰も食べようとなんてしないだろう。

何はともあれ今宵はクリスマスイブニング。

セブンイレブンで買った私の骸を食べながらウイニングイレブンをプレイして、時代遅れのウイングロードに乗りながらメリーさんの羊を食べ尽くし、どうにかこうにか年末商戦を乗り切っていこうと思う所存である。

アーメン

解説

ときどき本気で菜食主義者になろうと思うことがある。そして今までの悪い行いを償って天国に行きたい。ベータ版の、にわか仕込みのベジタリアン。Good

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