将棋のプロが勝っても喜ばないのはなぜか。
先日の日曜日のこと。
テレビのチャンネルをテコテコかえていると将棋の対局が放送されていた。NHK杯である。将棋のルールは分かりそうでわからない。なのですぐさまチャンネルを民放にかえた。
が、妻が言う。
「いま、藤井聡太くんじゃなかった?」
藤井聡太くんに関してはもう、わざわざ説明するまでもない。地球の外からやってきた将棋星人だ。ほぼだれだって知っている。
あまりに有名な彼だが、私は彼の対局の様子を見たことはなかった。私も妻も特に将棋に詳しいわけでもないし、藤井聡太くんを追いかける熱狂的ファンでもない。が、妻がそう言うのでチャンネルをNHKに戻す。
テレビに映っているのはたしかに藤井聡太くんだった。おぉ、藤井聡太くんだ。対局相手はだれだろう? と思って画面左を見ると、なんと羽生善治さんではないか。なんということだ!
これまた将棋星人である! 羽生善治さんについてもわざわざ説明する必要はないだろう。彼もまた地球の外からやってきた将棋星人で、すっかりこの惑星に馴染んでいる寝グセの人である。
最近の将棋対局中継は「AI」が導入され、どちらが優勢かを画面に表示してくれる。しかもAIによる次の打ち手まで表示してくれる。だが、しょせんはAIだ。
いま画面の向こうにいるのは新旧2人の将棋星人である。人智を超越した読み合いが展開されているぞ。
対局を見ていると、妻はしきりに藤井聡太くんが飲むお茶を気にしていた。藤井聡太くんがお茶を飲むのだが、コップの中にお茶がないようなのだ。妻はずっと「だれか藤井くんにお茶を淹れてあげて!」と騒いでいる。
対局は結局、シン・将棋星人こと藤井聡太くんが勝利した。
問題はそのあとである。
対局が終了し勝ち負けがアナウンスされ、棋士の顔がアップになる。どの棋士もそうなのだが、勝ったほうの棋士がいつも嬉しそうではないのだ。むしろいつも頭を抱えている。負けたならまだわかる。悔しいし。でも、将棋の場合は勝ったほうも頭を抱える。喜びの表情など微塵もない。
「なんで藤井くん喜ばないの?」
妻が言う。つまり「将棋のプロが勝っても喜ばないのはなぜか?」である。妻の質問に対して私は、むかし何かでみた考え方を伝える。
「勝ったそばから反省してるからだよ」
彼らは常に反省しているのだ。最善手はなんだったのか、あの局面でもしもあの一手を打っていたら、無限にも近い打ち手と局面を想像し、常に最善を尽くす。すごい。
反省の様子は対局が終わってからの「感想戦」に色濃く出る。感想戦というのは対局直後におこなわれる反省会みたいなものだ。あれも絶妙におもしろい。
さっきまでギラギラで戦っていた2人が「ここで、こうだったら……あ〜」「こうなりますね」「あ〜、となるとこうでこうなって」「これで閉じる、と」みたいな一般市民ではよくわからない会話が展開される。それも静かに。
テレビを見ながらニヤニヤと妻は言う。
「ねぇ、これさ。私たちは理解できないじゃん」
「まったくわからんな」
「え、じゃあ将棋の知識がある人が見てたら理解できるのかな?」
「あ〜どうだろうね。理解できそうだけど……でも」
「でも?」
「この2人の場合だと、宇宙人同士の会話だし、神と神の対話みたいになるから、やっぱ知識があっても地球人じゃわからないんじゃね?」
「宇宙人でも神様でも反省するんだねぇ」
そんな会話をしながら、ふと、これは仕事の話に置き換えられるぞ、と気づいた。
これ、対局中を商談とするならば、感想戦は商談後のふりかえりに似ているのである。
たとえば上司と部下が一緒に商談に行ったとする。商談を終えて、すぐさますべきは反省会だ。これがいわゆる程度の低いビジネスマン同士であるならば、
「いやぁ、あのときの俺のトスアップどうだった?」とか「あの反対処理はよかったな」とか「あそこの仮説設定は合ってたけど、クロージングが足りなかったな」とかそんな程度であろう。
しかし、神々は違う。
やつらはすべてを反省する。
営業マンでいえば、こんな反省になる。
「あそこでもしもこう質問されていたらなんて返すべきだ?」とか「あそこであれを説明した意図はなんだろう?」とか「もしもあのタイミングでクロージングをかけていたらどうなっていた?」とか「もしも導入に至ったのなら、そこから副次的にどんな問題が出てくるだろう?」みたいな、こんな会話になるはずだ。
これがさらなる営業星人になると、もう意味がわからなくなる。海外、政治、地政学、原油、為替、その他もろもろパンピーには到底理解しえない、宇宙的な話になってくる。
そんなことを考えながら妻に言う。
「おれ、仕事がんばるわ」
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