都会育ちには分かるまい! (エッセイ 創作大賞 参加作)
「都会育ちには分かるまい!」と、思っていることがある。
私の故郷は山形、地方出身者だ。
田舎に帰省する時は山形新幹線を使う。
たまたま乗り合わせた人の言葉には方言があったり
少し言葉ナマリがあったりする。
それは心地よく耳を伝って心の中に届く。
みんな同じ所に帰るのだと実感できて安心感を覚える。
ふと、乗客の顔を見ると見ず知らずの他人でしかないのに
どこか見覚えのあるような懐かしい顔の人相に気が付く。
雪国育ちで生まれながら色白の人もいる。
「この顔」という言い方では失礼になる気がするが
自分も含めて乗り合わせた他人から見れば
「この顔・山形顔」なのだと気が付く。
もちろん全員が全員そうだというわけではないが、
その「地方独特の顔」風土顔とでもいうのだろうか?そういうものがあると感じるのだ。
具体的には血縁者に似ているとか同級生に似ているとか
そういうことだったりする。
それはその土地に多い苗字にも似ているようにも思える。
小学生の頃、こんな経験がある。
夏休みになると向かいの家に東京からやって来る小3女子、小4男子がいた。
子供同士なのですぐに打ち解けて一緒に遊んだ。
私は方言を使うと分からないだろうと思い、気を使って
教科書みたいな標準語の言葉を選んで話した。
仲良く遊んでいたが一つだけどうしても許せない話になったことがあった。
それは「田舎」と「都会」だ。
東京から見れば東京が「都会」地方は「田舎」で間違ってはいないし、
正しい。
だが、私は子供心に自分が住んでる所を「田舎呼ばわり」されることが悔しくて許せなかった。
だから「ここは田舎ではない」と言い張った。
すると「へぇぇぇ田舎じゃなかったら何?」と言い返された。
苦し紛れに・・・「田舎の・・・都会」と答えた。
「田舎の都会ってなんだよ?」と笑いながら返された。
「世の中には都会と田舎しかないんじゃないのか?親もそう言ってるぜ」と言い返された。
悔しいがその言葉に反論する術はなかった。
少し脱線するが山形では駅前などの繁華街に行くことを「山形に行ってくる」という。
もちろん自分がいる所も山形だったりする。
令和の今でもこの使い方は変わっていないようだ。
では、山形の山形とはどこだ?と言う話になるのだが、つまりは田舎の都会のことだったりするわけだ。
これが「都会育ちには分かるまい!」の話なのだ。
それと「自分の顔は地方を現す」これは他県の人でも自分の生まれ育った街に帰省した時に感じているのではないかと思うのだ。
Photo:かっつぇ
words:かっつぇ