自分のロゴマークにも使用しているが、僕はタンノイのスピーカー(古いモデル)が好きである。見た目ももちろんだが、その音は本当に本当に素晴らしいからだ。 初めてタンノイを聴いた時、なんだこの箱鳴りは!とびっくりするが、その音のトリコになると本当に止められない。 世に「タンノイファン」のこれだけ多いことがよ~くわかる。 特に弦楽器が良い。チェロなどはもうムシャぶりつきたい艶のある音がする。ダブルベースの胴がなる感触や、弓の擦れる音は本当にセクシーだ。もちろん、録音のクオリティに
(1からの続き) それでは、これからの時代の中で学校の音楽の授業の在り方はどうあるべきなのか。 僕は、前半に書いたような「音楽を使った」社会性や集団マナーの教育はもう必要ないと考える。 音楽の授業を通してこれから教えていくべきは、「人間理解」と「他分野(他世界)との繋がり」である。 「今学校で行われているような集団活動は人間理解にもってこいではないか」と言われそうだが、子どもは「その場に合わせて振る舞う」ことが容易にできる。 「いやいや、その場に合わせられる社会
日本の義務教育において当たり前のように置かれている「音楽の時間」についてずっと疑問を感じてきた。 「音楽の時間」といえば、合唱、中学校ではクラス対抗の合唱コンクールやパート練習。鍵盤ハーモニカやリコーダーの練習、合奏などが思い出される。 音楽が好きで生涯音楽を趣味や仕事にする人以外は、おそらく学校でしか経験することはないこれらの活動を通して、音楽の授業で子どもたちは「何を」学ぶのか。今の学校における音楽教育の目標とは何なのか。 そもそも学校教育に音楽や美術教
音楽が好きだし、オーディオが好きです。 今の気に入っている機器を長い時間をかけて徐々に揃えて来ました。 お金がないので、ケーブルを付け替えたりだとか、カートリッジが、電源がどうとかこうとか、その深みにハマることはできないですが現状に満足しています。ラックやスピーカースタンドも最近ようやく買いました。それまでは床に直置きや石の上に載せて聴いてました。 僕の機器選びは、見た目の印象でピンと来たモノ。その1点できました。(と、もちろんお財布事情(TT))もちろん安い買い物じゃ
最初に、日本で一般に言う「芸術」というコトバは近世まで存在しなかった。伝統的な「芸」能や「芸」事、「芸」道に西洋の芸術が輸入されるようになって、総合的な呼び名が必要になり、一般的になったコトバなのである。 芸術家という概念についても、時代が進んで人々の内面の欲求や技術の高まり、また生活の安定や職業の分業化のなどの歴史の中で、芸術家というカテゴリー分けが主に支配者サイドに必要となり、人為的に産み出され受け継がれて来ただけである。 つまり芸術とは常にその時代との結び付き
フルートを専門に勉強し、何10年も吹き、様々な演奏を聴いてきた。これは過去に木製モダンフルートについて書いたものである。 フルートは木管であるべきなのだろうか?もともとは木管だったし、その音色こそがフルートであった。だが20世紀以降の作品には木管よりも金属管がイメージされたものも多いだろう。最終的には作曲家のイメージした曲想や、その時代の演奏様式、他の楽器とのブレンドにおいて最も適した音色で奏され、笛の音色の役割を果たすのがフルート奏者の本分なんだろう。 最初の写真
僕がクラシック音楽を聴き始めてから、自分の中でずっとテーマになっていたことは、その音楽の中に何を聴くのかということだった。 最初にクラシック音楽に出会った頃は、主旋律とその担当楽器の音色を聴いていた。それはオーケストラであろうとピアノ・ソナタであろうとオペラやミサ曲であろうと何でもそうであった。メロディが全てであり、音楽を聴くとはメロディに出会うことだった。また様々な音色があり、その味わいに魅せられていった。 そこから長い時間をかけて聴き続けるうち、徐々にいろんな「