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そもそも芸術とは何なのか?

 最初に、日本で一般に言う「芸術」というコトバは近世まで存在しなかった。伝統的な「芸」能や「芸」事、「芸」道に西洋の芸術が輸入されるようになって、総合的な呼び名が必要になり、一般的になったコトバなのである。

 芸術家という概念についても、時代が進んで人々の内面の欲求や技術の高まり、また生活の安定や職業の分業化のなどの歴史の中で、芸術家というカテゴリー分けが主に支配者サイドに必要となり、人為的に産み出され受け継がれて来ただけである。

 つまり芸術とは常にその時代との結び付きの中で意味やその姿、在り方を変えるものである。芸術とは何なのかと問われた時、その答えは問われた時代や地域、職業などから切り離すことは不可能で、そのため人によってその答えは全く違うだろうし、芸術の捉えやそれに対する考え方は千差万別である。

 古典絵画のみを芸術と感じる人もいれば、路傍の石を集めたものに芸術を感じる人、身体の動きそのものが芸術であると感じる人、メロディではなく街の騒音を集めたものに芸術を感じる人もいて当然なのである。昔の西洋では「よく整った仕事」をアートと呼んだというような話もある。

 よって芸術を論じる場合は、「芸術」の前に「どこどこの時代の」や「誰々にとっての」という前置きが必要である。岡本太郎さんの素晴らしい芸術論も必ず、「現代の芸術」というように時代や場所を明確にして話されていたと思う。

 今も私達の社会における芸術、アートの在り方や関わりをめぐって様々な問題や意見が連日語られ、議論がかわされている。

 身近にあるようでいて実はその内実や本質がその分野に関わりのない大部分の人にはわかりにくいものとなっていること、それがいろんな認識のズレを生んでいることが様々なニュースを見ていて伝わってくる。そして現代日本において先に書いたような前提なしに、芸術というものは~とか、芸術家は~というところからそれぞれ話が始まってしまうところにも混乱の原因があるような気がする。


 芸術というコトバの問題はさて置いて、では最初の問い「芸術とは何なのか?」である。

 古代の芸術、近世の芸術、現代の芸術、西欧の芸術、東洋の芸術、あらゆる時代、地域において今では「芸術」と呼ばれている概念に共通する本質とはいったい何なのか?がこの記事のテーマである。

 古今東西、幾多の芸術論が書かれてきた。芸術の本質とは・・「心情の最も根源的な発露である」、「祈り、祭祀である」、「官能性である」、「社会の映し鏡である」、「爆発だ」等々、それぞれに正しいが全てを網羅する表現ではないと思う。

 その本質は「共有」だろう。

 まず芸術は人工的なものであり、自然とは区別されることを前提としておこう。芸術は人から生まれる。様々な理由があって人が生み出す。ではそれで終わりか?否、生まれた芸術は必ず作者とは別の人間に鑑賞されたり、読まれたりしてその役割を完遂するものなのだ。たとえば作者以外誰にも見られず葬られた優れた絵画はおそらく無数にあるだろうが、その絵は果たしてこの世界の中で「芸術」としての役割を果たしただろうか?素晴らしい歌を歌う少女が誰の耳にも届かない谷の底で歌っていても、その少女は「芸術」を創造していると言えるだろうか?

 この世界において「芸術」は、たとえ一人でも他の人間がそれを受取り、その美しさや作者の表現の世界を「共有」したときに初めて成立するのである。

 それは単なるコミュニケーションとは違う。意見を表明して他者に認めさせる行為などとも違う。作者以外の人間が作品や現象に触れるとき、その人間の心象に作者が表現したものと同じ世界を再創造させること、それが「共有」であり、「芸術」の本質的な部分なのだと考える。言い換えれば、あらゆる芸術作品や芸術行為は、他者との「共有」のための媒体であり、常に他者に再創造を求めるという本質を持つのではないか。「芸術作品に感動する」とは、鑑賞者が作者のインスピレーションを「共有」している状態であり、作者を理解し、つながりを持てたことに対する喜びの感覚なのである。

 この「共有」というキーワードから現在の芸術(アート)を巡る様々な課題に対して新たな風を吹かすことを考えて活動しているアーティストの方々はすでにたくさんいらっしゃるが、僕もこの視点を持っていろんな「芸術作品」の受容や理解、創作について発信していけたらもっと新たな世界が開けるのではないかと日々思っている。

 

 


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