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クラシック音楽の中に何を聴くのか

 僕がクラシック音楽を聴き始めてから、自分の中でずっとテーマになっていたことは、その音楽の中に何を聴くのかということだった。


 最初にクラシック音楽に出会った頃は、主旋律とその担当楽器の音色を聴いていた。それはオーケストラであろうとピアノ・ソナタであろうとオペラやミサ曲であろうと何でもそうであった。メロディが全てであり、音楽を聴くとはメロディに出会うことだった。また様々な音色があり、その味わいに魅せられていった。

 そこから長い時間をかけて聴き続けるうち、徐々にいろんな「聴く」要素が加わってきた。

 あるとき演奏者のその演奏に込める熱量が聴こえてくるようになり、こういうものを名演と呼ぶのかなどと納得していた。

 次にどんな曲でもバス声部の音が気になり、耳が常にバス声部の動きを追うような聴き方が癖になる時期があった。

 またある時期は、楽器の音程感、楽器間のハーモニーがどうにも気になって、音程の良い演奏とはどれなのかを探して聴くようにもなった。どんな名演奏家でも音程感が自分の耳の感覚と合わないと、音程が悪いと感じた。

 そして次には、主旋律と対旋律の絡み合いが気になり、大きな魅力となった。様々な声部が聞こえる明解な演奏こそ良い演奏と感じられ、主旋律と伴奏という風に聴こえる演奏があると前者に劣るように考えられた。

 所謂「即物的な演奏」、楽譜に忠実に、演奏者の恣意的な解釈を封じ、作曲家の意図に近づけるという視点があることを知り、そのようなスタイルであるといわれる演奏を聴き込んでみたりもした。しかし、そもそも「楽譜に忠実な演奏」などというものは存在しないのでは?という思いに行き着き、楽譜を恣意的に解釈し倒しながらも圧倒的にその作品世界を再現している(作曲家の意図を実現している)巨匠たちの演奏に心打たれるたびに、「即物的な演奏」の重要性は薄れていった。

 その他、第二次大戦周辺までの演奏スタイルに対する古楽器演奏、ピリオドスタイルの演奏についてもいろんな演奏を聴き込む中で考えさせられたが、結局は音楽演奏は「正しさ」で聴くものではなく、要はその演奏を聴いて何らかの楽しみや感動を得られるかという部分で接していくものであり、スタイルの善し悪しではないという結論に至った。

 このように僕はクラシック音楽を聴くという行為に必ず何を聴くかという目的を持って聴くことが多く、それが大きな楽しみや快楽にもなり、また答えのない質問をいつも投げかけられているような感覚にもなった。

 最近は、1950年代までの巨匠たちのレコードばかり聴きながら、結局どんな聴き方をしたところで最も重要な「クラシック音楽を聴く目的」は、作品を通して「作曲家」を感じることであり、それが伝わってくる演奏が優れた演奏なのだと思わされることも多かった。

 ここまできて、僕は今ひとつの考えに至るようになった。我々は音楽の中に何を聴いているのか?それは結局「自分自身を聴いている」のだということ。

 これまで書いた音楽の聴き方は、自分自身の聴く力の成長によってひとつひとつ深められてきたものであるし、曲やその演奏の感じ方は全て聴く人の蓄えた経験や知識、感情というフィルターを通してその都度脳内で再構築されている。誰にとっても全く同じ感動を与える曲や演奏というものは存在しない。音楽を聴くという行為はつまり、聞こえてきた音を自分の中で自分だけの音楽に作り替える組み立てる行為であると言えるのだ。「気持ちの良い青空」は眼と脳が「空は青い」と認識し、「気持ちが良い」と感じる経験を積んできているから存在するのと同じように。

 

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