見出し画像

小中学校の音楽の授業について思うこと 2

(1からの続き)

 それでは、これからの時代の中で学校の音楽の授業の在り方はどうあるべきなのか。

僕は、前半に書いたような「音楽を使った」社会性や集団マナーの教育はもう必要ないと考える。

音楽の授業を通してこれから教えていくべきは、「人間理解」と「他分野(他世界)との繋がり」である。

 「今学校で行われているような集団活動は人間理解にもってこいではないか」と言われそうだが、子どもは「その場に合わせて振る舞う」ことが容易にできる。

「いやいや、その場に合わせられる社会性をこそ、学校は子どもに教えているのだ」とまた言われそうだが、その学習なら朝の朝礼や、体育の授業で十分だ。


 指導者と指導される集団、またグループで協力して結果を出すよう指導される活動と、本当に仲間や相手、知り合い以外の他者を理解して、協調して行う活動とは全く違うのだ。
 この人間理解の力は、集団への適応を訓練することで育つものではなく、個を磨く、個に注目することから始まる学習なのだ。

個を見つめるところから始まる人間理解が、これから何故必要なのか。

 それは人間の命と結び付き、音に生命を持たせることを本質とする音楽を学び深めるということは、人間理解を学び深めることとイコールであるからだ。
これが音楽を学校で授業として行うことの意味であろう。



 では具体的にどういった授業になるのか。


 それは、今までのような目標に対しての「手段」としての音楽活動ではなく、人間と音楽を同じものとして扱い、学び、共に生きることを習慣付けるという目標を持つ。

 その学習内容は、とにかく子ども達が「選択」することから始まる。楽器か、歌か、鑑賞か、合奏か、何を通して「自分と音楽が結びついており、共にあること」を学ぶかを選ぶのだ。

選んだ学習は、他の子どもとの協同学習ではなく、あくまで子どもひとり一人が自己理解を深めるために機能するものとする。
それぞれは小集団が望ましいであろう。そのためには、一人の教師がひとつのクラスを教えるという発想から離れ、多年齢、縦割り学習の発想が必要になる。

 歌であれば、教師が選んだひとつの作品に対しメンバーがそれぞれ自分の思いを託し、表現を考え、他のメンバーに発表し、周りはその考えや思いを受け止めるという時間が多く取られるような指導を行う。全員で合唱するにしてもそれは最後に十分機が熟してからの活動となる。


 楽器を使ったグループも同様に、その楽器と人間の結び付きについて学び、その楽器に対して子どもが思いを持つことからスタートする。奏法や読譜の学習はあくまで手段であり、目的ではない。その視点を教師が絶対に外さないことが重要だ。


 鑑賞も同様だが、鑑賞する作品の選択など、より子どもの自己選択の余地が広く、自己を見つめる作業がしやすいだろう。


 合奏やアンサンブルもまた同様に、「間違えずに協力してまとまった演奏に仕上げる」ことが目的なのではなく、作品への思いを子どもひとり一人が持ち、「自分の曲」として自分の表現が作品の成り立ちにどう影響するのか、どんな役割りを果たすのかを考えさせることに重点を置いた指導が行われることになる。


 どの活動にしても指導の上で一番重要なことは、子どもが音楽を自分の外にあるものではなく、自分の中から出てきた自分自身の投影であると捉えられるようすることである。音楽に自身を見る感覚が、自己を見つめ理解し、肯定することにつながり、最終的には同じ人間としての他者への理解、共感につながるからだ。


 このステップの先にあるものが、先に書いた「他分野(他世界)との繋がり」だ。

 正確には「他分野(他世界)との繋がりを知る」ということになるのだが、音楽を通して理解を深めた「他者」は学校の友達や、作曲家だけではない。人類の生み出した様々なもの(国家、スポーツ、芸能、絵画、建築、習俗などあらゆるもの)は子ども達の中で、全てまだつながりのない異世界の他者として存在している。それらに対して、「理解すべきもの」として教えられて「学習」するのではなく、同じこの世界で自分と同じ人間によって作られてきた「自分と繋がりあるもの」として、そこにある自分と共通する思いを知り、感じ取る力を育てるのだ。それは単に、歴史の悲劇に同情することや、自分の立場に置き換えるというものではなく、もっと主体的で当事者意識を持ったものである。

 もちろん現行の学習指導要領等でも「主体的な学び」は謳われており、学校では様々な取り組みがすでに行われている。しかし、やはり学校の特別な活動という枠組みの中での制約から、所詮は「教科書にはない学校行事」の一つであり、表面的であり、本当の「当事者意識」を持たせられているかは疑問である。また、日本の受験体制もあり、学力のための時間に多くを割かざるを得ず、このような分野を横断し、徹底して個の問題に落とし込むような時間は今の学校にはない。

 「他分野(他世界)との繋がりを知る」ためには、他世界との「違い」ではなく「同じものを自世界から見つけ理解する」という学習が必須である。

 具体的には、先に書いたような「自分で選び取った」内容について「自分のこととして」考えるワークを小集団で年齢に合わせて行う。その中で実習、実技を行うこともあるし、学校外の専門家との交流も含まれる。課題点は、とかく受動的になりやすい子ども達に、いかに自己につながるところまで深められる分野を数多く提示できるかである。


 これは音楽だけでなくあらゆる教科において実践できるだろう。いろんな教科学習において今は、その本質を人間の身体から疎外し、人間の外にあるものを学び取らせるような傾向にあると思う。そんな中で音楽の授業は年々切り詰められた時間内で、多くの内容を消化することが難しくなった結果、前半に書いたような誤った方向でその存在意義を保つようになってしまったのではないか。

 本当はいろんなものが人間の中にあり、また人間そのものなのだという感覚を取り戻すことで学校での学びは大きく拡がり、また変化し、他分野(他世界)との繋がりを「学ぶ」のではなく「取り戻せる」のではないか。


 これは、非現実的で理想論に過ぎる提案をしているのだろうか。確かにこのような授業を展開していくためには、教員体制や教育課程、時間割など大きな組み替えが必要になるし、理想的な項目を並べてある現在の学習指導要領とも乖離するであろう。

 しかし、学校というものは時代とともに変化させていく部分が必ず必要である。その変化は、当然子どもたちだけでなく、教師や親も含めた周りの大人へ与える影響も大変大きくなる。つまり学校が変われば、社会が変わるのだ。

 情報にあふれ、自分と自分以外の分化が進む現代にあって、利便性の向上と自己実現の多様化に逆行するかのように、孤独を感じやすかったり、自己肯定感を得づらかったりする人間が増えている。そんな社会でこれからを生きる子どもに学校教育が何を与えられるかは大きな課題なのではないか。

 その中で音楽や芸術の授業でできることの可能性は、実は大きいのではないかと思えるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?