「『僕』の文章には人格が見えてこない」と、中の人がダメ出ししています
これから僕が書く文章は、かなり個人的なエッセイになると思います。
普段は読み手を意識した書き方を心がけていますが、
そのやり方では、これから書くテーマについての思考がぶれそうなので、
あえて書き方を変えてみます。
「『一人称』と『口調』が文章の描き方に及ぼす影響について」
これがこの記事におけるテーマです。
僕は普段、noteでは『ですます調』を使っています。
これはなぜかというと、まあ、読んだ印象が柔らかそうだなというだけです。
一人称に『僕』を使っているのも、同じような理由です。
そっちの方が控えめだから。
一人称や語尾の選択については、この程度の理由でいいんですが、
どうやら僕は『僕』と『ですます調』を組み合わせて使うと、
視点が中の人(書き手)とフィットするみたいなんです。
これの何が悪いのかというと、端的に言ってつまらないんですよ。
きどじゆんの中の人は、世間に溶け込みつつも、
「あー、早く会社辞めてえ、不労所得で生活してえ、腹が減らなければ食べずに済むのになあ」
「自分専用車両があったらなあ、電車通勤も楽になるんだろうなあ」
と考えるような怠け者なんです。
それをそのまま文章に出すことができれば、多少なりとも愉快だったり、軽妙だったりするんでしょうけれども。
実際にはそういった部分は文章として表出してきません。
それはおそらく、
『僕』という人格=社会性の仮面を被った人格が、
『ですます調』の喋り=周囲の人を不快にさせない語り方を、
文章にもそのまま反映しているからではないか、と思ったんです。
つまり、他人に配慮ばかりしている人格が、そのまま文章を書いている。
はっきり言って、没個性的で人柄が見えてこなくて、読んでいて飽きる。
果たして、そうやって書かれた文章が、他人を楽しませたり、
なんらかの知見を与えることができるのでしょうか。
もしかしたら、誰かの琴線に引っ掛かることもあるかもしれません。
しかし、僕はそんなマグレ当たりに期待するような書き手のままでいたくない、と考えてしまっている。
それに気づいて、僕はどうするか?
気づいたところで、『僕』と『ですます調』を変えるのか?
変えたところで、何も変わらないかもしれないのに?
それでまあ、GWの間に色々と考えたわけです。
書いた本人が後で読み返しても面白くて、中の人の人格が見えるような文章の書き方はないものか、と。
その時に書いたのが、以下のnoteです。
考えているうちに、わかりましたよ。
ーーそう簡単に答えなんか見つからない、ということにね!
もしかしたら、他のnoterさんの記事の中にヒント、
あるいは答えがあるのかもしれませんが、僕には探しきれないでしょう。
結局のところ、こういう答えは自分で見つけるしかないんです。
…ただ、無い頭でも絞れば答えに近づくもので。
だいぶ昔に書いた文章(ネット小説)を読み返していると、ある発見がありました。
小説の主人公の独白部分が、いい距離感で物語を描写しているんですよ。
なんででしょうね、別人格になりきっているからなのか、
その時の僕がたまたま書ける時期にあったからなのか…
答えは見つからないままですが、このnoteはそろそろ終わります。
ですが、今後も文章の書き方についてはいろいろと模索していくつもりです。
やっぱり、頭を苦しめながら書くよりも、
楽しく書ける方が長続きしますからね。
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