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メモ/アダルトなチルドレン考察/フロムの愛の定義にシンパシー

一日の終わりにレアなどぶろく(酒)をやりながら家族心理学の論文を読み耽り、脳みそに喜びの電流流して遊んでおりました。

KICO(キイコ)です〜、こんばんワイン〜(酒まみれ)!

先ずはPodcastより、メモ。

世の中の大半の人は何かを理解するとき、そこに矛盾があってもそんなに気にしないのだろう。信じられる丁度良い(楽な)同意や落とし所を求めているだけ。解像度の高さや真理を求めるのは、哲学者など一部のマイノリティだけである。

あ、そうだそうだそうなんだったと耳元からまた喚起されました。

気をつけよう、弁えておこう、何をしてどう生きるかは千差万別!

欲してない人に押し付けにならないように。

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お次!

対話サービスのInstagramアカウント( @kicobestfriendservice )のストーリーに日頃アップしているミニコラムの続きから!

アダルトなチルドレン


当たり前だけど子供というのは知識や経験が少なくて、理解している概念が限られているから果てしなく主観的・直感的(感覚的)なところがありますよね。

だからこそ大人のように色眼鏡がかかっていないとか、物事をそのまま見ることができているとも言えるわけだけど、視野は狭く(主観的とはそういうこと)・視座は低い。

身体的にまだ背が低いといったようなことも関連している/見渡せるほどの視界が実際開けていないから、というのを読んだことがあります!

ところでアダルトチルドレンといったようないわば精神的に自立することを達成していない大人、これってまさに

チルドレンのまま止まっている、視野狭く・視座低い=主観が強い(自分だけの見え方に囚われている)からこそ生き辛くなってる状態の人を指すんだな

と、ふと合点いきました。

自分だけの見え方に囚われている、のだとしたら、そこにはエゴや執着があるのでしょうし、それだけ何かしらの不安や恐怖を持っているのでしょう。

そりゃ、生き辛いです。

成長するにつれて新しい知識や経験をジャンジャン得てゆく人ばかりではないことは、同世代(40代)を見渡してみても明らかに感じているところ(むしろ何歳になっても自分のために学び続けようなんていう、無知の知がある人はレアだ〜。)

子供の頃に信じたまま更新されていない概念をアテにしていたり、自分がしてきた経験だけを頼っていたり、認知の歪みや思い込み・勘違いが解消されないまま生きてゆくと、我や執着は益々強くなってゆくだろう、、、!

環境や時代の変化に既にまったく着いてゆけていない人もいれば、変化してゆく人達と合わなくなり一層頑なになる人もいる。新しい家電や新しいサービスみたいなものが好きで、そういうものにいち早く順応出来る人は多いのでしょうが、

葛藤や矛盾・不都合なことなどを含めて自分の生き辛さを認められる人、自分自身の心や人生・現実に対して素直に向き合い、より良く生きようと努力してゆける人は少ない!

向き合うとか乗り越えるとかそういった〝より良くあろうと努力すること〟には、それ相当の負荷や手間がかかるので、なるべく回避しようとする心理になるのは理解できます。

そして対話サービスを始めてからより一層、解消されることのない(することが出来ない)不安や恐怖をいつまでも抱えたまま〝知らない不安より 知ってる不幸〟を保ってストレスを感じたまま生きている人は多いのだろうとも思う。

もちろんわたしも含めてほぼすべての人間は主観的・感覚的で自己愛やエゴの強い無知なところから自分なりの知識や経験を得て、その人だからこその能力や才能を発揮している(それが例えば後手に回って、我慢する・やり過ごすのような力であっても)と思いますし、どんな人でもその人の在り方・生き方・人生は、その人のものとしてリスペクト!です。

しかしおそらく、いや、明らかに、

人生って、アダルトになれた方が楽しめるんですよ!!!

なんならアダルトになってからが人生の楽しみ本番という感。

腕を磨いて精進して、アダルトになりたいチルドレンのお役にも立てるようになりたいな〜とも改めて。

by 元チルドレン( ◠‿◠ )

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ラスト!

フロムを再読して抜粋。

北見一郎先生のフロム解釈の新書より



愛とは「能動的な活動」であり、愛を「与える」ことによって愛を「生産」する。

しかし愛の能動的な性質は「与える」ことだけにあるのではない。配慮、責任、尊敬、そして知識──それがフロムが考える〝愛の基本要素〟である。

「配慮と責任」が愛の本質であるということは、

愛とは人が圧倒されるような情念ではない

ということだ。

人との合一体験は、決して宗教的な非合理な体験などではなく、むしろ、合理主義の帰結だという。愛はあくまでも情念の側のものではなく、理性の側に属するのだ。

「女性が花が好きだといったとしても、彼女が花に水をやるのを忘れたことを見てしまったら、彼女の花への『愛』を信じることはできないだろう。愛とは愛するものの生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない」

愛の本質は何かのために「働く」ことであり、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は切り離すことはできず、その人のために働く人を愛し、愛する人のために働くのだ。

愛の第二の要素は「責任」である。愛は「責任」からも切り離せない。責任(responsibility)は他者からの反応(response)に応答する(respondere)ことである。

責任は外から押しつけられる義務ではない。誰かが助けを求めているのを知った時、強いられてではなく、またそうするべきだからと考えてではなく、自分の判断で自発的に応答することである。

愛の第三の要素は「尊敬」である。尊敬は、語源からわかるように(respicere=見る)、相手ありのままに見ること、その独自の個性を知る能力である。ありのままに、相手のために、相手のやり方で成長、発展するよう願い気遣うのだ。

人は誰かを愛する時、愛する人と一つであると感じる。しかし、その場合でも、ありのままのその人と一つになるのであって、自分のために使う対象と一つになるのではない。この意味においても、相手を尊敬するためには、自分が自立していなければならないことがわかるだろう。

愛の第四の要素は知識である。人を尊敬するには、その人を知ることなしに尊敬することはできない。愛の一面である知識は表面に留まらず、核にまで届くような、真の深い知識である。自分自身の関心を超え、他者をその人の立場で見られる時、初めて相手を知ることができる。

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愛するということはイージーなことではないかもしれない、でもわたしは愛することが好きです。

愛そうと学んだり努力出来ることが結構なしあわせ!

今までたくさん間違えたり失敗してきたし、今もまだまだ序の口の新参者だろうけど、死ぬまで努力出来る対象があるっていうのも嬉しい、生きる甲斐があるっていうもの〜。

知性のある人間として、理性と感性を発揮して愛する努力をする・研鑽すること自体が喜びに感じられます。

そして、対話サービスをやっていくことはこの研鑽に大きく寄与するだろうなという感、アリ。

ありがたい、、、ありがたい趣味・仕事に辿り着いたものだ笑笑!!!!

さまざまな勉強を続けながらクライアント(他者)を理解しようとすることで副産物として自分を理解することにもなる。つまり人間を理解しようとし続けることになる。

そしてクライアントという他者のために自分の能力を発揮することは自分のためでもあり、それは純粋な行為で、バックグラウンドには愛があります。

自然な欲求の連続なんでしょうね〜。自分の欲求に従って何かをやる。努力もしてゆく。するとそこで自己実現なり成功することが出てくる。成功したら嬉しくて、さらに追求したりレベルアップしたくなるものなんでしょう。

理解出来るかもしれないこと、やれるかもしれないことが少しずつ増えてゆく。

こんな感じで向かいたい方に向かってゆく先がどうなるのか、10年後、20年後、、、自分が何処で何をやっているかは分かりませんけども(生きてるかすら分からないですよね厳密には笑笑)、

相変わらずこの世界やこの世界に生きている人間(自分と他者)という生き物、そして愛に興味を持って追求しているだろうことはなんとなく想像出来ます。

楽しみです!!ざっくり!楽しみ笑笑!!!

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