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「奈落暮らし」5日目-0729

 この「奈落暮らし」という企画を立てたときは、沈思黙考というか、ひとりロックダウンというか、静かな聖域というか、そういうイメージで、慌ただしい現実から隔離され、ただただ物思いに耽る、みたいなことを考えていたのだけれど、当然のことながらチーフ・キュレーターだと、奈落にいようがどこにいようが、目の前の現実は慌ただしい現実にいつでもなるのだということが、数日間でよくわかった。しかしなかなか難しい。チーフ・キュレーターが別のひとだったらそもそもこんな方向性のフェスティバルは生まれていないだろうし、かといって、「奈落暮らし」を誰かに依頼出来るのかというと、パッと候補が思いつかないのも正直なところだ。依頼するようなことでもない気もする。

 今日のオンライン・シンポジウム「歴史的苦境における劇場」は、吉祥寺からっぽの劇場祭にドンピシャの内容で、本当にやって良かった。司会だったからそれはやらなかったが、自宅で聞いていたら徳永さんのお話に何度も膝を打ったことだろう。人生でこういう災害に巻き込まれたのが初めてだからといって、人類の歴史をみれば無論その限りではない。コロナという言葉が聞かれ始めた2月から半年が経とうとしているのに、未だにあまり進歩していない似たような議論も多い(私もそのような議論をしているひとりなのかもしれないが)。けれども、江戸だろうが昭和だろうが、人々の動きや反応というものはあまり変わっていなくて、21世紀だから、令和だから、何か突出して違うことも実はあまりない。巨視的に物事を考えていきたい。数ヶ月の休業は劇場にとっては大きいし今も大変だろうけれど、吉祥寺シアターが数十年続くことを思えば、私の人生でいうところの「半年間、学校に行かずにひきこもってた時期があった」ぐらいのことに過ぎないのかもしれない。私はその半年間が人生の中で最も本を良く読んだ時期だった。新しい文体や考え方が生まれ、まとまった文章をある程度書けるようになり、その半年間があけたあと、はじめて戯曲というものを書こうとして、何とか書けた。そして、今に至る。
 これまでどおりを求めると苦しいが、劇場にとって、そういうある種、開き直った期間を過ごすことは難しいのだろうか。徳永さんは、「奈落」はサンスクリット語で「地獄」を意味すると私に最後にそう言った。地獄でも楽しく暮らすことは出来る。


◎オマケ

 吉祥寺シアター最寄りのローソン。そろそろミニストップに行くべきだろうか。ファンタオレンジを飲んで、やっぱりファンタグレープがいちばんだよね、と確認する行為のように。たまに、ファンタオレンジに鞍替えしてしまうときもあるけれど。

<昼食>
とうふそうめん風
★★★

美味しかったけど、露骨なまでの食欲のなさ。夏バテにしては、夏が来ていない。

<夕食>
はみ出るバーガーメンチカツ
★★

露骨なまでに食欲がないときに買うものではなかった。


チーフ・キュレーター 綾門優季

いただいたサポートは会期中、劇場内に設置された賽銭箱に奉納されます。