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時代錯誤の「孟母三遷」

我が子を私立小学校に入れたい親のよくある方便として「環境を買う」という言葉がある。
環境を買うという言葉自体に異論はない。
でも、歩いて行ける距離にあるすぐ近くの公立小学校をスルーして、わざわざ私立小学校に通う動機としては理解できない。

「環境を買う」という言葉から、マタニティハイ数年継続中の親は「孟母三遷の教え」みたいなのをイメージするのかも知れないが、あれはそもそも、居住地域の話だよね。
「環境を買う」、なんと耳触りが良い言葉。そしてその実、ペラッペラの言葉。

確かに、母校に入るような子供の家庭は、一定の水準を満たしている。年間百万円の学費を出せる経済力と、出したいと思う教育意識の高さ。子供自身も、放置子なんているわけない。小さな時から惜しげもなく教育費をかけられ、習い事もレアなのをやっていたりする。私はバイオリンが弾けるのだけど、それはザラで、ハープを習っている同級生もいた。今考えると、ネットなんてない時代、ハープなんてどこで習えるの? 
勉強や習い事だけでなく、教育熱心な親達は、自然教室やスキーやミュージカルなんかも行かせるわけ。素晴らしいよね。
以前も書いたが、それが世界の全てなら。

そう考えると、「環境を買う」は、私が生まれる前の時代なら成立していた考え方、育て方だったのかも。
見えないけれども確かな階層があって、それを越えることは滅多にないような時代。ネットどころかテレビなんかも普及してなくて、ヒトが自分の住んでいる半径2キロメートルぐらいの世界が全てだと体感していたような時代ならば。
サザエさんを見ていると、この時代なら私立小学校も存在意義があったのかも、と思う。良い家の嬢ちゃん坊っちゃんは、生涯他の階層とは交わらずに一生を終えそうだから。
けれど、むせ返るほど情報過多な現代、嬢ちゃん坊っちゃんだって知ってしまう。自分達の生活している世界の外にも、世界があることを。親がいくら温室の中で育てても、見てしまう。自分達の外の世界が、とてつもなく広いことを。

いったん、ここまで。
次回は、世界の谷間でハレーションを起こした同級生の話でも書こうかと思う。

#創作大賞2023
#エッセイ部門

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