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「花職人」は泣く | 読書ノート【13歳からのアート思考】

あなたは、アート鑑賞が好きですか?

さらに聞くと、「彫刻」というジャンルの展覧会や美術館に行って楽しむことができるタイプですか?

わたしは、ワクワクするよりも楽しめるかが不安になって足がすくむタイプの人間です。


というのも、実際にお休みを利用して彫刻の森美術館を訪れた時にそんなことを思ったからなのです。
実際に入館してみると、広大な敷地によく見てもなんだか分からなそうな彫刻が置かれているのが遠目で見えます。

「わ〜広いなぁまわるの時間かかりそう。その時間、きちんと楽しめるかな〜」

なぜ「楽しめるか不安」になるのでしょう。
わたしは、彫刻について知っていることが何もない。ただ何かの原料を何かの形に彫られているものであるという事実だけです。

何も知らないからこそ、実物を見ても正体や良さが分からなくて「つまらなかった」という体験になったらどうしようと不安になったのではないかと。
少し言い換えると、せっかく行ったのに「楽しめなかった」と損した気持ちになるのが嫌なのではないかと考えつきました。

では、どんなアートでもそう感じるのかというと、そんなことはありません。
わたしの好きな時間の一つに、浮世絵鑑賞や博物館鑑賞があるからです。

なぜ好きな分野の展覧会には不安を覚えないのか。
それは、最初からこの作品が見たいという「目的」があり、その作品の時代感とか背景を理解していて作品を見ても予測できるからだと思います。
(わたしは、日本史の教師であるという専門性も関係しているかもしれません)

そして、実際見てみることで
「あぁ想像通りやっぱり素敵だった」
となる体験ができることを知っているからなのだと思いました。


ここで、本の話に入りまーす。

突然アートのことを語り出してしまいました。最近、アートそのものに興味を持つようになったわたしです。
それは、『「自分だけの答えが見つかる」 13歳からのアート思考』という本を読んだことがきっかけでした。

本書は、中高生向けの「美術」の授業をベースに、
- 「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
- 「自分なりの答え」を生み出し、
- それによって「新たな問い」を生み出す
という、いわゆる「アート思考」のプロセスをわかりやすく解説した一冊。   

「自分だけの視点」で物事を見て、
「自分なりの答え」をつくりだす考え方を身につけよう!


先に、読んだ印象と感想をズバッと言います。
心をガツンと殴られたような衝撃があったのちに、泣きました。電車の中で、泣かせていただきました。
そして、今の自分を勇気付ける、あざやかな希望が湧きました。

そんな本です。

なんか、もうここで文章を終えてもいいんですけども、自分の中で消化不良なので、ちょっと整理しながら書いてみます。

「長そうだからもういいや」という、ここまで読んでくださった優しいあなた。

まだこの本を読んでいないようでしたら、是非ご一読ください。

特に、毎日自分なりに頑張っているのに思うように行かない、もしくは、思うようにいっているはずなのになんかモヤモヤする、というあなたには、是非読んで欲しい本です。

一番言いたいことは、以上です。


どこに衝撃を覚えたのか。

ここからは、わたしのこの本への気持ちを整理していきます。

まず、わたしがこの本のどこに衝撃を受けたのか。
それは最初の章にある以下の箇所に集約されています。

私たちは「1枚の絵画」すらもじっくり見られない              
…(絵画とその説明があるページを経由して)今、あなたは「絵を見ていた時間」と、その下の「解説文を読んでいた時間」、どちらのほうが長かったですか?

おそらく、「ほとんど解説文に目を向けていた」という人がかなり多いはずです。

…「自分なりのものの見方・考え方」などとはほど遠いところで、物事の表面だけを撫でてわかった気になり、大事なことを素通りしてしまっている

…ジッと動かない1枚の絵画を前にしてすら「自分なりの答え」をつくれない人が、激動する複雑な現実世界のなかで、果たしてなにかを生み出したりできるでしょうか?


ひえええ!グサグサっ!!頭ガツーン!!!
と突き刺さる文章でした。なぜならわたしは、まさに「美術館で解説文だけを読む人間」だったからなのです。そして、その事実にこの文章を読むまで気づいていませんでした。

私は、確認作業をするためだけにお金を払って通っていたのですね…。そこで、冒頭のアート鑑賞の話につながっていきます。

ああ、だから私、その確認作業ができる展示会とかだけは不安ではなかったのかもしれない。解説文を読んですでに知っている知識を確認できるから。背景知識をそこで読んだ知識とつなげて、なるほどね、と確認することで一種の「安心」を覚えていたのかもしれない、と。

「安心」を覚えるために美術館に足を運ぶ。別にこのこと自体は悪いことじゃない。だけど、今までの解説文に依存するという鑑賞方法が間違っていたのでしょうか…。

そうしょぼくれる私を、筆者はなだめてくれました。

…「アートの2種類の見方=鑑賞方法」をご紹介したいと思います。

…まずは「背景とのやりとり」です。ここでいう「背景とは、「作者の考え」に加え、「作者の人生」「歴史的背景」「評論家による分析」「美術史における意義」など、作品を背後から成り立たせているさまざまな要素のことそ総称しています。

…すぐに解説文を読んで納得した気になってしまう鑑賞者のあり方をやや否定的に扱いました。しかし、解説文に書かれていた内容も、立派な、「作品鑑賞」の1つです。

アート思考を実践するには、解説をまったく読まずに、すべて自力で「自分なりの答え」を生み出さなければならないというわけではありません。…

ほっ。とりあえず一安心です。

では、鑑賞方法の2つ目とはどんなものなのでしょう。筆者は「作品とのやりとり」と表現しています。これは、鑑賞者が「アーティストの意図」とはまったく関係なく独立して「自分の考え」を表現することと言います。

そしてこの作業が、アートを完成へと近づける作業とも言っているのです。

アーティスト自身の探究と解釈に、鑑賞者であるわたしの解釈を溶かして混ぜていく、作業。

その体験を想像すると、先が見えず刺激的でドキドキする体験のように感じられてなりませんでした。

このことから気づいたことがあります。
それは冒頭のアート鑑賞で話した「彫刻」を鑑賞した時のことです。

実際足を運んで、楽しめるか、めちゃくちゃ不安だったと言いました。じゃあ、その結果はどうだったのかと言いますと、実はめちゃくちゃ楽しかったんですね。

なぜだったのかを考えた時に、彫刻については、すべてにおいて門外漢だったわたしだったからこそ、ただ純粋にその彫刻の形や色や質感に身を委ねることができたからではないかと思いつきました。

彫刻の美術館の良いところは、解説がほとんど載ってないところ。タイトルだけで、作者の意図(背景)を想像する必要があります。

だから、結果として背景を超えた自分自身の疑問や興味を自由に伸ばしやすい、刺激的体験となったのではないでしょうか。


アート思考と、私自身とのつながりと、泣いたところ


いよいよ大詰めです。この筆者は「アート思考」を身につけようと伝えています。ではその「アート思考」とは、どんなことを指しているんでしょう。アートを植物にたとえて表現されていました。少し長いですが、引用します。

「アートという植物」は、「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」の3つからできています。しかし…空間的にも時間的にもこの植物の大部分を占めるのは、目に見える「表現の花」ではなく、地表に顔を出さない「探究の根」の部分です。アートにとって本質的なのは、作品が生み出されるまでの過程の方なのです。

…どんなに上手に絵が描けたとしても、どんなに手先が器用で精巧な作品がつくれても、どんなに斬新なデザインを生み出すことができても、それはあくまで「花」の話です。「根」がなければ、「花」はすぐに萎れてしまいます。作品だけでは、本当の意味でのアートとは呼べないのです。

この植物が養分にするのは、自分自身の内部に眠る興味や、個人的な好奇心、疑問です。アートという植物はこの「興味のタネ」からすべてがはじまります。

…アートという植物は、地上の流行・批評・環境変化などをまったく気にかけません。それらとは無関係のところで「地下世界の冒険」に夢中になっています。

アーティストは、花を咲かせることには、そんなに興味を持っていません。むしろ、根があちこちに伸びていく様子に夢中になり、その過程を楽しんでいます。
アートという植物にとって、花は単なる結果でしかないことを知っているからです。


興味関心というタネを探究という根を伸ばすことで育てること。その結果、出てくる花は表に見える表現でしかない。

アートとは花を愛でるのではなく、その地中にある根とタネを愛でることではないか。何かを表現することは、自分の探究に正直でいること、その冒険にワクワクして夢中になること。

それだけでいいんだ。ああ、そういうことだったのか。


ここまで、アートというテーマを題材にしてきましたが、わたしが心でイメージするものは、今の自分の状況にシフトしていきました。

自分なりに問題意識を持って、授業のことを研究する自分。クラス運営をどうして行こうかアイデアを練り上げていく自分。危機的状況にある学校を時代に合ったワクワクする場所に変えるための取り組み、努力。ひととつながろうとすること。

教師としての自分が持っていた「興味のタネ」を養分に、「探究の根」を伸ばしてきた数年間でした。


だけど、いつからか、私は、「表現の花」ばかり注目するようになりました。そうなる外部的なきっかけや原因は複数あるけれど、そんなことは今はそんなに関係ないのかもしれない。


もう一つ、引用します。

世の中には、アーティストとして生きる人がいる一方、タネや根のない”花だけ”を作る人たちがいます。本書では彼らを「花職人」と呼ぶことにしましょう。

花職人がアーティストと決定的に違うのは、気づかないうちに「他人が定めたゴール」に向かって手を動かしているという点です。

…たとえ花職人として成功を収めても、似たような花をより早く、精密に作り出す別の花職人が現れるのは時間の問題です。そうなった時、既存の花づくりの知識・技術しか持たない彼らには、打つ手がありません。

…粘り強く根を伸ばして花を咲かせた人は、いつしか季節が変わって一度地上から姿を消すことになっても、何度でも新しい「表現の花」を咲かせることができます。


自分は何を焦り、急いでいたのだろうか。

教師として走ってきたわたし自身は、「花職人」であろうとする人をどこかシラーッと見ていたはずなのに、実はそれは自分になっていた。

興味や希望のタネがあったことも事実だし、そのためにいろいろインプットして、それを今の自分なりにアウトプットしながら根を伸ばしたのも事実。

でもそこで出てきた花が自分が思っていた形じゃなかったり、一輪咲いた尊さに慣れ、いつしかもっともっと綺麗でたくさん咲かせることだけを気にするようになってしまった。

花を整えるにはどうしたらいいんだろうって迷路の中をぐるぐるまわることしかできなくなっていたんだ。

はい、先ほどの引用文章を読んで、感傷的になりつつあったわたしは泣きまーす。電車の中で恥ずかしかったです。


筆者の方は、「花職人」を悪とは言っていません。

ただ、自分らしく、予測できない未来の社会を生きていくために、「自分の興味に従って探究し続ける」というアート思考が必要なのだ、という結論を出されているだけです。それは、実際に中学校で教壇に立たれているからこそ出てくる、地に足がついた言葉だと確信しました。


きっと「花職人」は、わたしだけじゃないはず。たくさんの仲間がいるはずなんですよね。

そして「花職人」は、たとえ今は気付いていなくても、誰しも苦しんで、泣く瞬間があるんじゃないか。

わたしだけじゃなく。

なんで枯れてしまうんだろう、とかどうして咲かないんだろう、とか。


ありがとう、勇気と希望をもらいました。

追記 ▶︎noteのイベントで紹介されました!

なんと、読書の秋2020の公式イベントの中で、この記事が紹介されました。ほんの一瞬でしたが、とても励みになりました!

17分ごろからです。
よろしければ合わせてご覧ください😊

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