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人って本当に必要なの?自分で世界は完結しないの?

人には人が必要なのだろうか。

人という字は、人と人とが支えあってできている、人が関わり生産したものに囲まれている現代で繋がりなしでは生きられない、
そんな風に言われているとごく自然に、人には人が必要だと思います。

でも本当にそうなのでしょうか。
私自身、人一倍、情に熱いタイプで、愛情深さもあると思います。

でも、結論から言うと、人には人の存在が必須ではないと、私は、思うのです。
人との繋がりとは、私たちを何よりも豊かにしてくれるものであって強制されるものではないと思うのです。

血の繋がっている親だって子供と縁を切ることはあるし、
この人と一生連れ添っていくと誓っても別れることもあるし、
深く親友だと信じていた人をいとも簡単に裏切り傷つけることはあるし、
もっと言えば、若い私達は確証がないながらも「愛」「一生」とかの言葉を使って関係性が深いものだと思おうとすることもあります。

もともと私は、高校生くらいまで
嫌いな人なんておらず、みんなのことが大好き!というタイプで
他の人がいなければ生きていけないと思っていました。
けれど、「万人を好きでいなければならない」と思っていた時に、
人と波長が合わずに離れた時にひどく孤独を感じていました。
人と人とは繋がり合えるはずなのに、繋がり合えない・分かり合えない人もいることを
大学生あたりから、だんだん気づきだしました。
私は国際協力を専攻しており、途上国によく生き、文化も言葉も顔立ちも全く違う人たちとわかりあい、時には何かを生み出そうともがきますが、
やっぱり分かり合えない人は出てきます。
けれど、国籍でくくるのであれば、傾向的に日本人との方が分かり合えない気もします。
といのも、言葉を共有する私達はその些細なニュアンスにまで違和感を感じるし、
文化を共有する私達は読みすぎるまでにその人の背景を読み解いてしまう気がするのです。
だから「分かり合えない」と気づくのです。

分かり合えない人がいる、しかもその数や割合は結構多そうだ。
むしろ、根本的に分かり合え、繋がり合える、そんな人存在するのだろうか。
誓ったとて、時間を重ねたとて、血を共有したとて、あっけなく離れうるこの世の中で
本当の繋がりなんてあるのだろうか。
このことに気がついてしまうと実は自分はひどく、孤独な存在だと気づきました。

そもそもなんで私がこんなことを考えるようになったかを辿ると、
一人の同級生の女の子と、一つ上の男の子の影響が大きいように思います。
その女の子に会ったのは去年の夏で、最初、私から見た彼女は自分という存在の確率が強く、他者との繋がりを求めていないように見えたのです。
結局、彼女の感情を垣間見てみれば、彼女は彼女で繋がりを大切にした愛のある人であって、ただそれが他の人みたいにわかりやすくはないだけで私の誤解でした。
けれど、彼女を誤解していた時の私は、人との繋がりを求めないかのような姿に動揺し、
自分自身も実は、今求めているほどには人を必要していないことに気づきました。

もう一人の男の子に関しては、厄介な感じです。彼とは三年間、近い距離にいて、
いわゆる恋人っぽい時期もありましたが(私が一方的思っていただけらしい)、まあ、曖昧なものです。
彼は人に対してとても優しく寄り添い大切にしています。
でも彼と関係が深くなるほどに、私という存在は彼にとってはそれほど必要ない、というか一部に過ぎないと感じるようになりました。
表現することに飢えているような彼は、結局は自分の世界を自分で完結できるほどの強烈さを求めているようです。彼は他者に愛情深いようで実は、他人に関心がなく期待していないからこそ優しいのかもしれません。
家族関係であまりうまくいっていない私にとって、彼は一番近しいと言えるかもしれません。
それでも、彼との関係なんて何かが起きればふっと消える儚いものだと、かなり冷めた目を持つ自分がいます。

こんな感じで、実は自分が思っているほどに、本当な必要な人なんていなくて、ずっと、なんてものはまずますないように思えます。
また、歳を重ねるにつれ、自分の時間が増え、思想が深まり、行動できる範囲も広がると、
「自分」という存在の味を噛み締め出します。
昔思っていたよりも自分という存在はずっと面白く豊かになり出して、これとの対話は尽きません。そうなった時に、以下のように思ったのです。

結局、世界は「自分」が中心で、この存在を喜ばせるかにかかっているようにも思えます。
私にとって人、だったり、人との繋がりとは、自分を喜ばせるため、豊かにするための存在なのかもしれません。
基本的に私は人が好きで、もっと知りたい、たくさんの人と、深く、知りたい。
人と一緒にいて、何かを受け取り、あわよくば私の何かを相手が受け取ってくれる、
そんな学び、支え合う関係がそこにあると、素晴らしいものだと思います。

人に優しくしたい、人に何かしてあげたい、もっと言えば社会に良いことをしたい。
自然に湧いてくるこの感情。この感情の正体はなんなのでしょうか。
人は必要でないはずなのに。
それはきっと、人にとって人が、一番自分を豊かにしうる存在であり求めてやまないからだと個人的には思います。

自分を豊かにするものとして人間以外の動物もありうるし、自然もありうるし、人間が生み出した産物である学問、食、衣服、金なんかもあり得ます。
それでも同じ種族である人間に対して、足りないものを補い合いたいと思っているのかもしれません。
人によっては自然が心を一番満たしてくれるかもしれないし、ゲームが満たしてくれるかもしれません。
でも、人との繋がりを遠ざける人と接する時の、妙な違和感は、「本当は人をもとめているんじゃないの?」と聞きたくる感じです。

岡本太郎によると、人間は不完全な存在として生まれたから、足りないものを他者にも求め、
重なり合った時により豊か(完璧に近くなるもの)になるそうな。

だらだらと自分の考えを書き綴りましたが、
人は本来、孤独であり、自分を豊かにすることを望んでいると思います。
それでも、人を求めてやまないのは、
分かり合えない・繋がり合えない、という前提を飛び越えて、
実は分かり合えたり、繋がり合えたりするそのこと自体に喜び、
自分の足りない何かを補ってくれる存在(自分を豊かにしてくれる存在)の最たるものだからと思うのです。

だから、私は人がもっと繋がる瞬間が増えたらいいなと思います。
(その繋がりに永遠を求めるときが遠くなるけれど、人生の一部の時間を共有できうる存在としてなら、気楽かもしれません。)
人を思いやれたとき、思いやられた時に少しだけ、豊かになれる気がするからです。

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