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創造

仲良しの美大生の男の子に、
商品化も検討している作品の説明文を見せられた。
その文章は彼のその時の関心であったデザインとファインアートの関係についてのもので、まあ、興味深いものであった。
感想を求められ、自分なりの解釈を加えた後に、
「もし、これが人に何かを伝えたい文章なのであれば・・・」
と、商品化するのであればと、
一部彼の表現的に伝わりにくいところについてアドバイスしようとした。

「それだから、君はつまらないんだよ。
僕はそんなことが聞きたいわけじゃない。」
普段は穏やかな彼が少し怒ったかのように突っぱねてきた。
「売れるように、とか、伝わるように、なんてチープだ。
なんですぐに方法論に走るんだろう。
この文章それ自体について聞きたいんだ、僕は。」

彼の言葉によって、また、つまらない自分を思い出す。
言葉とか、行為とか、創り出すものとか、それ自体が
どのように、人に写るを考えてしまう私を、私自身はつまらないと思う。
この文章にだって、そんな思いが知ってか知らずか乗っている。
そんな私は結局、
社会の波に感性や創造性を潰されるがままにしているのだろうか。
彼の文章にだって私にも思うことはあった、
でもそれをぐっと、入り込んでみて自分の思想に落として対峙する、
その行為に面倒臭さを覚えた。
彼の文章が、私にとってその思考に値するものではなかった可能性もある。
あるいは、まっさらにそれを見て、感じることに身を任せられない。
まあ、それも致し方がない。
私は彼みたいに、ものづくりや何かを生み出すよりも、
仕組みづくりやそれがどう広まるか、について思考を巡らせる方が好みだ。

そんな風に、そもそも思考のタイプがあると理解はしているものの、
アーティスト、クリエイター、芸術家、と
呼ばれる人たちの近くにいれば、会話をすれば、
生まれた時の感性に近いものがちゃんと根を張っている気がしてしまう。

別にそこを目指したいわけではないが、
自分が失くしたもの、あるいは生むに至っていないを感じ取り、
切なさがある。
こんな「彼ら」を私、あるいは凡人から一つ線を引く、この行為は
また、空想上で、誰だってできるはずの創造を社会的に遠のかせる。
そして、それを続けていたら、なお、社会のつまらない価値観に
揉まれてしまう気がする。

そんなだから、
要らないものがついていたり、足りなかったり、失くしていたり、
私の感性や思考に、平凡さ、つまらなさを、感じることは多い。
平凡さなんて定義はできないけれども。
「そんなことは他ですでに語られている。
もっと新しいものを内から見せてくれ」と、迫る。

けれど私は私を恥じているわけではない。
何をどう、創るかは自由で、私の手法は少なくとも「彼ら」とは異なる。
私の脳が興奮するポイントは、わかりやすい言葉で言った時の
ものづくりや制作、ではない。
創造に決まった形態はなく、私にとってのそれは、
社会の仕組みづくり、とか多分そっちの方。
だから冒頭の男の子の文章を見た時もそちらへ思考が向かう。

強がりかもしれないが、「彼ら」と勝手に括りを作って
距離をどこかで感じるのは、
私が私の在り方をまだ信じられていないからかもしれない。
別にロールがあるわけでなく、区切られているわけでもない。
だから「私はここ!」とかする必要も、もちろんない。

こんなにも複雑で語り得ず、時とともに深まりを見せているのだから、
もう少し、信じても良いのだと思う。比較なんて忘れてしまうほどに。

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