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フィヨルド伯爵夫人

 神戸異人館通りの風景を、高台より望む。当時中学生だった私は、登下校の際、あの白や赤茶色のレンガ、グレーの丸石に彩られた街並みに幾度となく目を奪われた。休みの日、友人と坂を下っていると、一人の女性が西洋造りの屋敷に入って行くのが見えた。友人は「あっ......伯爵夫人だ」と呟く。彼曰く彼女は頻繁にこの通りを行き来している様で、端正な顔立ち、細い身体と青いワンピース という姿を見て誰かが付けた、伯爵夫人という渾名。歳は三十代前半くらいだっただろうか。
彼女が入った屋敷は、フィヨルド・パラスティンという貿易商が昔に使用していた邸宅で、現在ではその姿形を残しつつ、カフェの店舗として利用されていた。その様な事を全く知らなかった当時の私は、赤レンガに打ち込まれたプレートにフィヨルドの字を認め、裏で彼女の事を『フィヨルド伯爵夫人』と呼ぶ様になった。

 その人の事を知人だと認識してしまえば、やたらと目に付くのが不思議である。私は部活のランニング中、下校中の道端、英会話教室への行き掛けなど、様々な場所でフィヨルド伯爵夫人を目にした。相手からしてみれば、クラスで一番背が高い私の姿も、たかが二十歳下の中坊な訳で、特に意識せず、するりと脇を通り過ぎるなど造作もない事である。
対照的に、私の中の伯爵夫人は、出会う回数が増えれば増えるほど、胸の奥に募った想いが増長し、それは初恋とも、純粋な憧れとも取れる形で存在感を強めていった。

 母から、坂を降りた所にある肉屋で、すき焼き用の牛肉を買って来いと言われた。学校からの課題で忙しかった私は、一言断りを入れた。せめて荷物持ちだけでもしてくれとせがむ母に折れ、一緒に夕暮れ時の坂を歩いていると、向こうから見覚えのある人影が、こちらに歩いてくるのが分かった。
「あら、君江ちゃん。久しぶりねぇ。元気?」
伯爵夫人に気安く話かける母。
「おばさんは全然変わらないですね!あたしったら、最近ちょっと太っちゃって––」

初めて聞いた夫人の声は、清廉な見た目からは想像出来ないハスキーな声、その中に若干の無邪気さ、幼さを孕んでいた。
二人の立ち話の間、私は側の壁に寄って、彼女の楽しそうに喋るたわいもない話に聞き耳を立てたり、その大きな瞳、夕陽に照らされた紅い頬を見つめていた。
君江さんは、此方の姿に視線を移すと「健ちゃん大きくなったね。最近すれ違う背が高い少年が、まさか健ちゃんだったとは––」と言って、派手な笑顔を振りまいていた。私はそんな彼女の姿を、直視出来るほど大人ではなかった。

夫人と別れた後、母から言われた一言。
「あんた、君江ちゃんに小さい頃よく遊んで貰ったの覚えてないの?」
記憶の何処を探っても、その様な事実を見つける事は出来なかった。それどころか、ロクに話も出来なかった情けなさやら、恥じらいやらが、多感な十代の自らの姿を責め立てていた。
「あの人の旦那、外国の人なんだよね?」
そう言った私に、母は大笑いした後、少し咳払いをして表情を改めた。
「旦那さんねぇ、良い人だったけど、数年前に離婚しちゃったのよ。外国の方じゃなくて、岡山生まれの純日本人だけど」
また、君江さんには幼い息子がいるとの事だった。離婚した後、女手一つで家庭を支える彼女の後姿からは、いつもの異人館通りで見せる少女の様な華奢な出で立ちではなく、強い母の背中が見て取れた。

 夏休み、元町に友人と遊びに出た際、中華街で肉饅頭やら胡麻団子を買って、食べ歩きをしていると、友人が私の肩を揺すってきた。
「おい、あれ見てみろ」
彼の指差した先に視線を移せば、小さな弁当屋にて、髪を後ろで結び、タオルで汗を拭く君江さんの姿があった。絶えず客が出入りしている様で、時折水筒で喉を潤す彼女の姿は、何故かもやもやとした気持ちを私に抱かせる。
「......こう見たら、普通のおばちゃんだよな」
友人は胡麻団子の包み紙を潰しながら、そう呟いた。確かに、と思った。当時中学生の我々には、汗を垂らしながら客に笑顔で挨拶をする、あの伯爵夫人の美しさは、到底理解出来る物ではなかったのだ。だが、それでもなお、自らの心中を偽る事が出来ない私は、弁当屋の入り口付近に立って、店内の様子を隠れ見ていた。
彼女はその怪しい少年––つまり私だが––を見つけるや否や「健ちゃん、この暑い中なにやってんの。弁当持って行きなよ!」と大きい声を出した。結局、後ろから着いて来た友人の分と合わせて二つの焼売弁当を持たせてくれた君江さんは、眩しいほどの笑顔で我々を送り出した。
広場のベンチに腰掛けて、まだ仄かに暖かい弁当を頬張る少年二人。
「まぁ、綺麗だよな。おばちゃんにしては」
友人は米粒を箸で摘みながら、そう呟いた。 確かに、と思った。

 フィヨルド伯爵夫人は、以降フィヨルド伯爵に会う事も、夫人になる事もなかった。私が、淡い初恋に似る、強い憧れを向けた君江さんは、その数年後に喫茶店を開いた。異人館通りを脇道に逸れた所にある、小さな店だった。
神戸の大学で知り合った女の子と学生結婚した私は、妻と娘を連れてたまにこの喫茶店を訪れては、昔に度々見かけた、青いワンピースを着る伯爵夫人の幻想に浸るのである。
君江さんの息子は、小学生ながら少し反発が過ぎる、有り体に言えばわんぱく少年といった所だが、喫茶店の奥で私の娘とボードゲームをしている時は凄く大人しくなってしまう。そんな様子を伺いながら、我々大人連中は静かに笑い合ったり、彼をからかったりしていた。
「うちの旦那、子供の頃は君江さんに憧れていた、本当に綺麗だったって、しつこいんです」
妻が此方を指差しながら、君江さんと談笑していた。私は恥ずかしさを見抜かれない様、表情を隠す事に努め、珈琲を一杯注文する。
低い声で笑う伯爵夫人が「ませガキねぇ」と言いながら淹れてくれた珈琲の、なんと苦かったことか!

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