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第七談話室

 いかにも悪そうな腰を屈めて、彼が暖炉に薪を焚べるところを見ていた。木炭が弾ける音、そしてこの談話室で唯一の熱源である暖炉から離れるのを、さも名残り惜しい面持ちで眺める友人を前にして、僕は少しばかりの心苦しさを感じたのだった。
「俺が誰かを責める権利など、あるわけない」
 こちらの心境を知ってか知らずか、僕に目線を向けないまま彼はそう言った。
「冷たい隙間風、建て付けが悪いせいだ。電灯は数ヶ月前から光を灯さなくなった。我々が、電球を交換していないからだ。塵と埃、暖炉の灰で煤汚れた床、仕方がないことだ。掃除する奴など、この寮にいるはずもないのだから」
「そう、その通りだ」
「……それでも、俺はこの談話室に残っていたかった。たとえ何を言われたとしてもね」

 先ほど焚べた薪が、乾いた音を鳴らした。外は雪が降っているらしく、耳を澄ませば誰かの鈍い足音が聞こえる。磨りガラスの向こうには一面の銀世界が広がっているのだろうが、それでも我々を取り巻く薄暗い空間からは、何一つ確証がもてなかった。

 やがて足音は止み、いつもの静寂が訪れた。昔から耳鳴りは苦手だった。静かなる世界にあって、なぜ僕らは聴きたくもない不快音を聴かねばならないのだろう。
「ねぇ、もう一度、もう一度だけクジを引いてみないか?」
 口を開いた僕に対し、彼は口を閉ざしたまま首を横に振った。この数日間、幾度となく見た光景だった。友人は首を押さえながら、自分のポケットに入った何かを確かめるかのように、上着を何度か叩いた。外れクジの感触を、再度認識するように。自らの運命を、苦しながらも許容するように。
「正直に言って、僕はこの結果に満足していないんだ。我々が迎える死からはどう足掻いても逃げられっこないのだから。早いか、遅いか、その違いだけだ」
「どうせ死ぬなら、早い方がいい?」
「……状況にもよるね。ただ、この寮に一人残されるよりは、早く死んでしまいたい。そんな風に思ったんだ」

 椅子に深々と座る友人は、何かを考えこんでいるようだった。しかし、いくら悩んだところで、彼は外れクジをこちらに渡そうとはしないだろう。律儀な彼のことだから、恐らくは。
 ──先ほどの足音だけど。
 彼が囁くように喋った。
「……うん? 聞こえなかった」
「少し前に外から足音が聴こえただろう。もしかしたら、先に出た奴らのものだったのかな」
「昨日に寮を出た仲間が、まだ付近をうろついているって?」
「そうだ、あり得ない話だった。忘れてくれ」

 肩を落とした彼は、もう喋り尽くした表れだろうか、口をへの字に閉じてそれ以降は自分の考えを述べるのを拒絶しているように思えた。

「この忌々しい放射能が消え去った後、つまり気が遠くなるほどの未来において、何か我々の存在を証明出来るものがあればいいんだ」
 僕はあえて独り言のように、小さな声で喋るよう心掛けた。通常の会話は、もはや彼の望むところではないと思ったからだ。
「映画などを撮ろう。いや、機材がない。では声を録音しようか。……駄目だ、録音機などあるはずがない。やはり、文字で残すのがよいのだろうか」
 そこまで言うと、彼は談話室の端に積まれたビラを無造作に引っ張って、その何部かを僕の方に投げた。
「わざわざお前がやらなくても、既に文字で残されている。皆がこぞって記事を書きたがったんだ。そして、皆あっけなく死んでいった」

 最終戦争は、永遠なる冬を呼ぶ。八十年前に予言された氷期の訪れとは──

「たしかに、既に残されている」
 彼の言葉の通り、誰もが当時の惨劇を書きたがった。一つの文明、時代が終わり、価値あるものは文字で読む情報だけとなった頃、個人でビラを発行して、それを安全かどうかも疑わしい食料と交換する者が後を絶えなかった。
「しかし、本当に安全か分からないのは食料や衣服など、そんな形あるものではない。疑ってかかるべきは情報だ。真実かどうかも分からん情報で、いったいどれだけの混乱を引き起こしただろう? 市民の暴走、紛争、思えば体制の崩壊にしたって、直接的な起因は戦争なんかではないと僕は感じるけどね」
 少しばかり大きな声を出した。窓越しに屋根から雪の崩れ落ちる音が響いた瞬間、僕は思わず身体をビクッと震わせ、そしてそれを誤魔化すように「だから、こんなものを書く連中が嫌いなんだ」と言って、手に持ったビラを破り捨てた。そんな僕の姿を物珍しそうに見ていた彼は、静かに立ち上がった後で一つ欠伸をした。
「そろそろ行くことにするよ」


 ──最終戦争はついに継続が困難となり、終戦のタイミングが分からぬままに我々は破滅の一途を辿ります。世界は核の冬につつまれ、誰が生き抜くにも厳しい時代が到来しました。
 家族、恋人、故郷の友人、皆の安否が分かるわけもなく、学生寮の仲間は存在するかも定かではない救世軍を呼びに、一人ずつ寮を出て行きました。クジで外れを引いた者から順に、それでも何故か晴々とした笑顔で、寮を出て行きました。そして、一人残らず死にました。恐らくですが、死に絶えました。こんな僕の予想が当たらなければよいのに、と考える日々ですが最後まで外れクジを引かなかった僕のことだから、多分予想も外れないでしょう。
 最後の仲間が寮を出て、数日が経ちました。いまの正確な時間は分かりません。時期も季節も、定かではありません。食料も残り少なく、もっとも最近は食欲すらありません。残された僕に、もはや生き抜く力は残されていません。
 戦火が街よりほど遠かった頃、第七談話室で騒ぐ日々が、まだかけがえのない時間だと気が付かなかった頃、たしかに我々は幸せでした。誰もが笑い、泣き、ときに怒り、好きな娘の話を朝までしたものです。
 一人では笑えません。泣けません。怒ることなどあるわけがないし、好きな娘は一体どこ?
 もしも、この書き置きを読んでいる貴方が、僕の大切な仲間だとしたら、救世軍を呼ぶことに成功した勇敢な友人だとしたら、すぐにでも第七談話室を焼き払って下さい。貴方がこれから生きていくなかで、この場所が辛い記憶に留まることが、僕にはたまらなく寂しいのです。
 もしも、この書き置きを読んでいる貴方が、運良く辿り着いた見知らぬ人であったなら……我らが誇り、第七談話室へようこそ。

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