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【千玄室 大宗匠インタビュー】学生時代に培った英語力と、広い世界観

第一話では、主に国際日本学科に関するご意見を伺った。

その中で、グローバル人材として大切なことや、学生時代に成すべきことなどのお話を伺うことができた。


第二話では、そんな大宗匠の学生時代にスポットを当て、当時のことを振り返っていただいた。


戦時中に過ごした学生時代

―大宗匠の学生時代のお話を伺えますでしょうか。

千玄室 大宗匠(以下、千):私は今100歳です。戦前、戦争中、戦後、そして今日と、さまざまな時代を生きてきましたが、私が学生のころは戦争の真っ最中でした。当時は今のように自由や多様性がある時代ではありませんでしたが、先生方はもちろん、私たち学生も真剣に学んでいました。

京都府師範学校附属小学校を卒業した後、父の勧めで同志社中学に入学しました。創設者の新島襄先生夫妻、なかでも奥さまの八重さんと深いご縁が祖父(13代円能斎)のころよりあったのです。学校では、日本のことはもとより、中国に関すること、東南アジアに関すること、またアメリカに関することや英語の学習など、多くのことを学びました。当時は「国際性」なんてことをわざわざ言わなかったけれど、非常に国際的な学びが行われていたと思います。

旧制中学5年(17歳)になり、卒業後の進路を考えたときに、「将来はお茶の道に進むのだから、大学くらいは京都を離れて自由に過ごしてみたい」と考え、学習院か早稲田を受験しようと思っていました。


―結果的には同志社大学に進まれます。

千:茶家には1年を通じてさまざまな行事があり、家元はそれらを取り仕切らなければなりません。「家を継ぐ身で京都を離れてはいけない」「戦争が始まっているときだからこそ長男として父の元で学ぶべきである」と母に諭され、昭和16年(1941年)同志社大学の予科に進学しました。

大学では法学部で経済学を専攻しましたが、理由は茶道とは異なる分野を学んでみたいと思ったからです。お茶はどちらかというと歴史や文学など、文学部で学ぶような内容とかかわりが深い伝統文化なので、それとは違ったものを勉強したいと考えました。ただ、同じ年の12月に太平洋戦争が始まり、その後、戦況の悪化に伴って、ゆっくりと学生生活を送ることが難しくなってきます。

当時、大学生には「徴兵猶予」という制度があったわけですが、それも戦況が悪くなりなくなってしまいました。

大学生の徴兵猶予について
戦時中、「兵役の義務」として、満17歳〜満40歳までの男性に兵役義務が課せられ、満20歳から3年間現役に服するものとされていた。一方、当時の大学などの高等教育機関への進学率は3パーセントほどで、一部のエリートたちだけが通う高等教育機関という位置づけで、在学中の兵役が免除されていた。

太平洋戦争中、兵力の不足から大学生が学業を中断して兵役に就くことになり、昭和18年(1943年)からは、理工系および教員養成系の学生を除く、大学生に対する徴兵猶予が停止される。

大学で勉強に打ち込めることの喜び

千:大学生活は 2年間ほどの短い期間でしたが、本当に楽しく、すばらしい時間でしたね。専攻している経済学はもとより、英語、ドイツ語と、いろいろなことを学びました。今の学生の皆さんはそれが当たり前かもしれませんが、集中して勉学に勤しむことができるというのは、本当にかけがえのないものです。

2年に上がり、これからと思ったときに徴兵猶予の取り消しがあって、徴兵検査を受けることになりました。千家は茶家であると当時に、明治維新までは武家でもあり、代々身体が強かった。私自身、子どものころから乗馬や剣道をはじめ、さまざまなスポーツで鍛えていたおかげで一発合格です。

同じ年の4月、大学の掲示板で「海洋飛行団水上機訓練第1期生」の募集を見つけ、興味を持ちました。そして、「いずれ軍に入らなければならないのだから水上機の訓練もいいか」と思い、応募します。


―そのころには、学生生活の中に「戦争」が大きく入り込んできたわけですね。

千:大学の授業が終わると教練がありました。学校に配属される陸軍の配属将校というのがいまして、授業が終わると武装して軍隊と同じような訓練を行うのです。午前中に勉強して、だいたい午後2時くらいから教練が1時間くらいありました。海洋飛行団に合格してからは、大津にある天虎(てんこ)飛行訓練所に行かないといけなので、教練が免除されました。とても助かりましたね。

水上機訓練は楽しかったです。4か月ほどで単独飛行ができるようになり、この経験が後に海軍を志望するきっかけにもなりました。希望通り海軍に決まったときは誇らしかったです。そういう時代でしたから、訓練をしてきたことで国のために働けるのは、とても名誉なことだと思ったのです。

海軍でも活かされた学生時代に培った英語力

千:海軍は非常に国際性が高い組織でした。当時、制空権ということは言わず、まず制海権が重要視され、世界の港と港のつながりが非常に大切だったわけです。

交信に際しては、信号など英語を用いましたので、英語がとても尊重されました。その意味で、海軍兵学校出身者も当然ですが、英語などの教育課程が長かった我々、大学出の者が珍重されたのです。


―大学で培われた英語力が活かされたわけですね。

千:そうです。私が中学のときですが、先の戦争が始まる前の昭和10年代前半まではアメリカからいらした先生方もおられて、ネイティブスピーカーから英語を学びました。それと英語だけではなく、基礎的な素養として、さまざまなことを学んだ。特に同志社では、キリスト教を中心とした世界観を勉強することができたのが、私の大きな財産となっています。

千家ともつながりの深い禅宗をはじめ、屋敷内にはお社もありますから、仏教と神道も身近な存在でした。一方、同志社はキリスト教ですから、学校では讃美歌を歌い、家ではお経を唱えてお社にお参りする。そんな学生時代を過ごしていました。

この経験が広い世界観を育み、どんな国のどんな宗教でも戸惑うことがありません。実際に私はこれまでに世界70カ国を歴訪していますが、イスラム教でもロシア正教でも、あらゆる教会でお献茶をしてまいりました。こうした多様性、国際性が自然と身についたのも、千家での習慣、同志社での教育のおかげです。


―その後、昭和18年(1943年)に学徒出陣し、特攻隊に志願されます。

千:徳島海軍航空隊というところにいて、私たち予備学生出身者の搭乗員は昭和20年(1945年)5月21日に沖縄に出撃命令が下されました。ところが私は直前で取り消され、松山海軍航空隊への転属命令が出たのでした。多くの仲間が先に出撃し、私も死ぬことを覚悟していましたので、転属に愕然としたのは言うまでもありません。

そのまま松山海軍航空隊で終戦を迎え、終戦から20日ほどたった9月5日、約2年振りに実家に戻ってきました。

(第三話につづく)

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