見出し画像

ジョン・レノンが愛した日本(オノヨーコ、俳句、禅、神道、軽井沢)

ビートルズ時代や同バンド解散後のソロ活動を通じて、数多くの楽曲を発表し、世界中の人々を魅了してきたジョン・レノン。

文字通り、世界のビッグ・アーティストですが、ジョン・レノンは日本との関係が深いことでも知られています。この記事では、そんな「ジョンと日本」に関するエピソードについてまとめました。


ジョン・レノンが愛した日本

ジョン・レノンは、ビートルズ時代の1966年に来日し、以降も妻であるオノ・ヨーコといっしょに何度も訪日を果たしました。

もともと親日家で、俳句や相撲などの日本の伝統文化への関心も高く、文化的な側面からも広く日本を愛していたジョン・レノン。具体的なエピソードを見ていきましょう。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコとの出会い

そもそも、ジョンと日本の関係でいうと、まず押さえておかないといけないのが、奥さんが日本人のオノ・ヨーコ(小野洋子)ということでしょう。
※ジョンはビートルズ時代の1962年にシンシア・パウエルと結婚しており、ヨーコとは二度目の結婚になる。


二人は1966年、ロンドンのインディカ・ギャラリーで開かれていたヨーコの個展で出会います。個展開催の前日に訪れたジョンは、ギャラリーの一角に置かれた脚立に目を止めました。

それは『天井の絵 Ceilling Painting (YES)』という作品で、天井から虫眼鏡がぶらさがっており、脚立を登り、その虫眼鏡で天井を覗き込むと、そこに小さな字で「YES」と書かれてあるというもの。

この作品に触れたジョンは感銘を受けます。

後日談としてジョンは、「”No“とか意地の悪い言葉が書かれていたとしたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも”YES“だったから『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせる初めての美術展だ!』と思った」と語り、「”YES“という文字に僕は救われた」とまで言っています。


これがジョンとヨーコの出会いで、ジョンの離婚が成立した1969年に二人は結婚。ジブラルタルで挙式し(当初予定していたパリでは、「結婚式ができない」と当局に判断されたため)、その後ハネムーン中に有名な「ベッド・イン」というイベントをアムステルダムで行います。

これら一連の模様は、ビートルズ時代に発表された「ジョンとヨーコのバラード」(The Ballad Of John And Yoko)で歌われています。


親日家だったジョン・レノン

最初にオノ・ヨーコとの関係について触れたが、実はジョンはヨーコと出会う以前から日本に興味をもっていた。

1965年に行われた『ミュージックライフ』の単独インタビューで編集長の星加ルミ子から「相撲や浮世絵」などの日本の文化について質問されたとき、アートスクール時代の友人がもっていた日本の写真集に“beautiful”な力士の写真が載っていた話を披露するとともに、「日本には独特な文化があるのでぜひ行ってみたい」と言ったといいます。

ちなみに、「日本に行ったら相撲を観たい」といったジョンの言葉に触発されて、星加ルミ子はメンバー4人の手形を取ることを思いつき、それを実現しました。
(このビートルズの取材記事が掲載された『ミュージック・ライフ』1965年8月号は、発行部数が25万部(通常約5万部)という異例の増刷となり、しかも完売した)


また、初来日した1966年、ジョンは相撲観戦は実現しませんでしたが、ホテルを訪問した骨董店などから徳川時代の「推朱印籠」「香炉」などを購入したそうです。

参考までに、ホテルに商品を運び込んだ朝日美術の従業員(当時)若山秀子氏のコメントを記しておきます。

(前略)とにかく熱心なのはジョン・レノンです。金蒔絵の小抽斗(こひきだし)でした。私、ジョン・レノンがいい品を直感的に選ぶのに感心しましたね。値段を言わないでお見せしてるのに「これ」「これ」「これ」って、いい品ばかり選ぶんです。

出典:『ビートルズ来日学』宮永正隆・著

俳句を愛したジョン・レノン

1960年代のヒッピー・ムーブメントの折、禅をはじめとする東洋思想が多くの若者に広まりました。

ビートルズでは、最初にジョージ・ハリスンがインド哲学に傾倒し、ジョンも興味を示すとともに、ヨーコと出会って以降は俳句などにも親しむようになったといいます。
(1968年ごろ、ビートルズのメンバーは超越瞑想に興味を示し、創始者のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーにインドまで会いにいったりしている)


ビートルズ解散後、1970年12月に発売された初のソロ・アルバム『ジョンの魂』 (John Lennon/Plastic Ono Band)が日本で発売された直後のインタビューで、ジョンは「最近、禅や俳句から影響を受けている」と語っているます。

また、『ジョンの魂』をジョン・レノンは日本語で「シブいアルバム」と称し、「今までに読んだ詩の形態の中で俳句は一番美しいものだ。だから、これから書く作品は、より短く、より簡潔に、俳句的になっていくだろう」とも語りました。

古美術店の店主・木村東助との交流

湯島(東京)の古美術店羽黒洞の店主・木村東助(1901~92)は、同店を訪れたジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻の様子を後年、以下のように振り返っています。


店主がいろいろと絵を見せると、「How Mach?」とジョンが尋ね、いくらいくらだと答えると、「OK」と言ってジョンは次々と購入を決めていく。

彼が良い目を持ってる客なのか頭がおかしいのか、私は判断に苦しんでいましたよ。

という店主をしり目に、ジョンは次々作品を物色。芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」の短冊をみつけると、目の色が変わる。「How Mach?」「200万」「OK」というやりとりの後、「他にこういう類のものはあるか?」と聞かれ、良寛や一茶の短冊を見せる。

やはり、「OK」「OK」というジョンに、「俳句の心がわかるのかなぁ?」と半信半疑だった店主だったが、芭蕉の短冊を見た後、それを大事そうに抱えながらジョンが言った。

「私がこれを買って海外に持っていくことを、どうか嘆かないでくれ。私はこの芭蕉の句のために、ロンドンに帰ったら日本の家を建て、日本の茶席をつくり、日本の庭をつくり、日本の茶を飲み、そして床の間にこの軸を掛けて、日本人の心になってこの芭蕉を朝・夕見て楽しむから、どうか同じ日本人に売ったと思って嘆かないでくれ」

それを聞いた店主の木村は感激し、意気投合。その後、歌舞伎を案内する。演目は「隅田川」。子どもをさらわれた母親が日夜わが子を探しまわるが、子どもは殺されて隅田川河畔に埋められていたという陰惨な物語の「清元」(=セリフがなく、三味線を伴奏に物語を節で語る「浄瑠璃」の一つ)だった。


その演目を観て、涙するジョンに接し、「ジョンにとって目に見えるものよりも、心の目で見ているものが大事なのだろうと思った」と木村は語っています。

ジョン・レノンと交流・共演した横尾忠則

世界的に活躍する美術家の横尾忠則は、ジョン・レノンの生前、交流のあった日本人の一人です。

出会いは1971年のニューヨーク。ニューヨーク近代美術館(MoMA)での個展が決まった横尾が同地に行った際、ジャスパー・ジョーンズ(=アメリカの画家で、ポップアートの先駆者)に来訪を述べるとパーティーに誘われ、そこでオノ・ヨーコとジョン・レノンを紹介される。


そのときは簡単な挨拶を交わした程度であったが、ヨーコから「遊びに来るように」と連絡先をもらった横尾忠則が後日電話をかけ、ジョン&ヨーコ夫妻のところにまで出向く。

そこで日本の情報に飢えていたヨーコが、週刊誌で自分たちに批判的なことを書いた記事を取り上げ「これを書いた人はどういう人?」といった感じで、いろいろと聞いてくる。

結果、おいてけぼりを喰らったような感じになったジョンが何をしたのかというと、「ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ」と言ってヨーコと横尾の間に割り込み、邪魔をしてきた。

その他、ジョンは、

  • エルヴィス・プレスリーの「ブルー・ムーン」を横尾にヘッドフォンで聴かせる

  • 山ほど買ってきたカウボーイシャツを次々と着てみせる

  • タイムズスクエアーで売っている鳥のブーメランを部屋の中で飛ばす

  • 突然、ピアノを引き出す

  • フォトセッションを持ちかける

といった感じで、ヨーコに相手にされないジョンが自分に関心をもたせるためにさまざまな行動に出たという。


翌日、ヨーコから電話があり、デヴィッド・フロスト・ショーに一緒に出てほしいと言われ、横尾は快諾。

公開ライブが行われ、横尾はヒコーキを作って飛ばすパフォーマンスをステージで行った。

その後、ジョンは1980年に凶弾に倒れるが、ヨーコは自身が来日するごとに横尾のアトリエを訪れ、二人の交流は続いているそうです。

日本人アーティストの歌詞に出てくるジョン・レノン

ビートルズやジョン・レノンは、日本のアーティストにも広く愛されており、その楽曲の歌詞にもよく登場します。

ジョンに限らず、海外の映画スターやロック・ミュージシャンなどが邦楽の歌詞に出てくるケースは少なくありませんが、もっとも歌詞に名前が登場するアーティストはジョン・レノンだそうです。
(出典:ORICON NEWS「邦楽で最も歌詞に引用された人物、1位ジョン・レノン」

上記は、2010年という少し古いデータになりますが、計10万曲以上の邦楽曲を調査した結果、54曲にジョン・レノンの名前が出てきており、2位のマリリン・モンロー(35曲)を大きく離しての1位となっています。
(ちなみに、3位は「ビートルズ」の31曲)


代表的な楽曲をいくつか挙げると、

  • 真心ブラザーズ「背景ジョンレノン」

  • ブランキー・ジェット・シティ「JOHN LENNON」

  • RED WARRIORS「JOHN」

  • 斉藤和義と玲葉奈「五秒の再会」

  • Mr.Children「Everything is made from a dream」

  • グループ魂「荒ぶる地元の魂たち」

  • 森山直太朗「Q・O・L」

  • ASIAN KUNG-FU GENERATION「稲村ヶ崎ジェーン」

  • 夢の世代「谷村新司」

などで、ジョンのソロ時代の代表曲でもある「イマジン」が歌詞に出てくるケースも散見されます(斉藤和義「僕の見たビートルズはTVの中」など)。

いずれにしても、ジョン・レノンが多くのアーティストに愛され、リスペクトされているかがよくわかりますね。

ホンダを愛したショーン・レノン!?

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの一人息子ショーン・レノン。

1975年にショーンが誕生すると、ジョンは育児に専念するために音楽活動を休止します(裏の事情では、「音楽業界と距離を置いて自分自身を見つめ直す」「ビートルズとEMIの契約が1976年1月26日で満了する」ことが主な理由だった)。

そのハウスハズバンド(主夫)時代の1977年、78年、79年には毎年日本を訪れ、東京をはじめ、軽井沢、箱根、河口湖、京都、北海道など日本各地を歴訪。特に軽井沢はジョン一家のお気に入りだったようで、数々の写真が残されています。


そして、音楽活動を再開させたジョン・レノンは1980年に『ダブル・ファンタジー(Double Fantasy)をリリース。

その中の一曲、「ビューティフル・ボーイ」Beautiful Boy (Darling Boy)は息子ショーンに捧げられた楽曲でした。


そんなショーンも大人になり、自らも音楽活動をはじめ、1990年代後半には母であるヨーコのバックバンドなどを務めた「IMA」や、チボ・マットのサポート・メンバーとしても活躍しました。

チボ・マット (Cibo Matto)
日本人の本田ゆかと羽鳥美保によって結成された音楽ユニットで、アメリカ合衆国・ニューヨークを拠点に活動している。
※2001年夏のライブを最後に活動を休止 2017年解散

出典:wikipedia

で、当時話題になっていましたが、このチボマットの本田ゆかとショーン・レノンが付き合っていました(本田がオノ・ヨーコの曲「Talking to the Universe」のリミックスを担当したことが出会いのきっかけ)。

恋人関係は2000年ごろに解消されますが、2014年にチボマットが15年振りに発表したオリジナル・アルバム『ホテル・ヴァレンタイン』は、ショーン・レノンが主宰するChimera Musicよりリリースされていたります。


で、余談ですが、ショーンは、2008年から2014年までホンダ・フリードのCMに出演しています。

フリードのキャッチコピーが、「This is サイコーに ちょうどいい Honda!」。

青年期、本田ゆかと付き合っていたショーンがそのセリフを言うのはなんだか意味深と一部の人が思ったわけですが、そんなことを思ったのはあくまで一部の人で、どうやら深い意味はなさそうです。


余談の余談ですが、ショーンの異母兄であるジュリアン・レノン(ジョンの前妻シンシアとの息子)も1985年にホンダ・シティのCMに出演していました。

さいごに

この記事では、日本とジョン・レノンの関りについてご紹介しました。

語学だけではなく、伝統文化から現代のポップカルチャーまで、幅広い分野の文化についてもアプローチし、考察した知見をもとに日本や世界について考える学びを実践する国際日本学科。

ぜひあなたの興味ある分野をみつけ、それを英語で世界に向かって発信してください!


【国際日本学科・特設サイト】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?