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動物目線の動物愛護

動物愛護の現状

今ペット業界で「数値規制」が話題になっている。数値規制とは簡単に言うと、今までは曖昧な基準しかなかったブリーダー条件に、ケージサイズ等の具体的数値を設けようという動きだ。それ自体は良いことだ。しかし今これが問題になっているのは、その規制案の数値が劣悪だからである。

動物愛護について語られることの少ない日本ではあまり気にする機会もないかもしれないが、日本に限らず世界中での動物愛護の現状は、超動物愛護先進国のヨーロッパの一部を除いては、理想的ではない。商業化が進んだペット業界では利益優先の多頭飼育やパピーミルが蔓延り、シェルターには刻一刻と死を待つ動物たちがいる。家畜の環境も劣悪で、放飼いの家畜を口にできることは珍しく、ほとんどが動くこともままならない狭いケージの中で抗生物質漬けにされている。アメリカには農場での劣悪な飼育環境告発が法律で禁止されている州もある

人間中心的な愛と矛盾

もちろん、動物を愛している人もたくさんいる。だけれども、その「愛」は独りよがりの人間主体の「愛」なのではないかと疑問に思うことがたくさんある。

私には自称動物好きの犬と猫を飼っている友人がいる。「私、動物大好きだよ」と言いながら、彼女の食卓に上がっているのはチキン。彼女の足下の犬猫たちが食べているドッグフードおよびキャットフードには、動物の肉が入っている。彼女のチキンもペットたちの餌も、近所の安いスーパーで飼ってきたものだから、健全な環境下で飼育された動物の肉だとは考えにくい。彼女が食べているニワトリは、おそらく生まれてから一度も母親の顔を見ないうちに引き離され、餌を食べるのも糞をするのも同じケージの中で、自由に走り回る喜びも知らぬまま殺され食卓に上がったのだろう。

そんなニワトリの惨劇は想像すらせずに「動物が好き」と言われると、「あなたが好きなのは動物ではなくて、動物を好きな自分なのではないか」「動物じゃなくて、かわいい動物だけが好きなのではないか」と言いたくなる。

また、数年前に「#vegancat」というハッシュタグが流行ったように、動物好きを自称していてもこの例とは対照的に殺生には完全に反対で、肉食動物の猫にまで完全菜食主義を実践させていた人たちもいる。食べ物のために命を奪っていなくても、肉を食べなければ猫はいずれ必ず弱っていく。これは一種の動物虐待だ。

動物好きを自称している人たちのほとんどが、嘘をついているとは思わない。しかし、あまりにも考えが浅はかで矛盾していて、人間中心的な愛が多すぎる。動物好きの人たちに本当の意味での動物の幸せを考えるきっかけになればいいと思い、この記事では世界で国によって異なる動物への対応の仕方、動物と人間の共生の概念を紹介したい。どれが正解ということではない。物事を多角的に捉え視野を広げて、動物たち目線での幸せを考えてもらいたい。

インド

世界一菜食主義人口の多いインドでは、本当の意味で人間と動物が共生している。首都のデリーであっても牛、犬、猫、サルなど様々な野生の動物が街中で暮らしている。人間の生活圏と動物の生活圏の境界がなく、人間の生活も動物がいる前提で進んでいる。道路に牛がいれば横断し終わるまで待つし、サルに洗濯物を取られてもしょうがないと思うしかない。

そしてインドでは、どんな理由があっても動物の命を人間が奪うべきではないと考える人が多い。食用に殺さないのはもちろん、人間に危害が及ぶような動物であっても殺さない。なので、明らかに狂犬病にかかっている犬も野放しにしておくことが多く、このことにも起因してインドは世界一狂犬病発生率が高い。国自体がそこまで豊かではないことも関係しているが、そこら中にいる野犬にワクチンは施されていない。動物には人間の手を加えずに生かしておくことが、インドまたはヒンドゥー教での価値観なのだろう。

インド人の動物との関わり方で、もう一点私が興味深いと感じたのは、一般的にベジタリアンと言えば肉魚は食べずとも、ヴィーガンでない限り卵は食べる人がほとんどだが、インドでのベジタリアンに卵は含まれないことだ。インド人は卵にはもう命が宿っていると考えている。しかし乳製品には命が宿っていないので、ヨーグルトにしたりチーズにしたりして相当量が消費されている。さらに彼らは、乳牛とその他の牛を区別しているようで、牛はヒンドゥー教で聖なる動物と言われているにもかかわらず、乳牛の扱いは粗末であることが多い。

ジョージア

ジョージアには野良犬野良猫が大量にいる。しかしそれらは行政がしっかりと管理していて、全ての野良犬にワクチンが打たれ、その証拠にワクチン済みの犬の耳にはタグがついている。野良犬野良猫が多いのは、ジョージア人が犬猫を地域全体での共有ペットとして見ているからだ。もちろん、自分のペットとして犬や猫を私物化している人もいるが、街中の野良犬野良猫たちは、誰が管理すると決められていなくても、誰かしらが毎日餌をやっている。そのため一箇所に住み着いている犬猫もいるが、リードで繋がれることも狭いケージに入れられることもなく、彼らは悠々と町中を走り回っている。

グアテマラ

中米グアテマラもジョージアに似た状況で、野良犬野良猫たちが地域の共有ペットのように扱われてい。ジョージア、特にトビリシでは政府がワクチンを与えていたが、グアテマラではどちらかというと住民が善意でワクチン代を賄い、去勢手術を行っていた。特に私が住んでいた田舎の方では、車が走れるほどの大きな道がなかったので、犬猫たちは車に轢かれる心配なく好きに走り回れていた。

グアテマラ人は犬や猫には優しかったが、家畜には残酷だった。市場では生きたままのニワトリの足が結ばれ、身動きが取れないままタライの中でぎゅうぎゅう詰めになって売られていた。食用なので購入されたら殺されるのだが、その買われるまでの間の劣悪な環境下で、もう生気を失っていたニワトリを何羽も見てきた。彼らはペットと家畜の命に優劣をつけていた。

イギリス

ヨーロッパでも特に動物愛護意識が高いイギリスでは、ペットだけでなく家畜に関する人々の意識も高い。イギリスでは、放飼いでない食肉や卵、乳製品を見つけるのはかなり難しいだろう。ブリーダーに関しても厳しい法律が存在している。イギリスでの動物たちの環境は悪いとは思わないが、一点機になるのが、都会で屋内で飼われているペットたちだ。ペット愛好家の多いイギリスでは犬猫を飼う人も多いが、過保護なあまり外へ出さない人をたくさん見た。日本でもたまに見かけるが、事故に遭うのを心配して外に猫を全く出さない飼い主がいる。家のドアを開けた瞬間に外に出ようとする猫だったり、散歩という言葉を聞いただけで目を輝かせてはしゃぐ犬を見ると、この子たちにとっては、家の中での生活は人間が思っている以上にストレスなのではないかと考えてします。特にジョージアやグアテマラでのびのびと屋外で生活している犬猫と比較してしまうと、屋内しか知らないペットたちが不憫でならない。

動物主体の幸せ

ひとつ言っておくと、私は別に特に動物が好きなわけではない。猫とペンギンとニワトリが大好きだが、いざ飼うとなると面倒臭いし、責任を持って世話をする気にもなれない。

だけれども、この地球で一緒に暮らしている者として、彼らの権利は全力で守っていきたいし、人間の恣意で彼らの生命が脅かされることは、絶対にあってはならない。

私は、ほぼヴィーガンのベジタリアンだ。「ほぼ」と言ったのは、体調に応じて卵や乳製品、魚を食べる時がごく稀にあるからだ。できるなら全く食べずに生きていきたいが、人間は元々雑食生物であり、動物性食品を食べることはごく自然なことだ。こういった動物性食品を食べなければならない状況になった時、私は一番環境と動物を傷つけない方法で命をいただいくようにしている。卵ならば絶対に放飼い飼育されたニワトリのもので、飼育環境が分からないものは絶対に食べない。利益ばかり追求する劣悪な業界の支援はしたくない。

ペットに関して、私はペットを飼っていないが、今のところジョージア式が一番動物たちに優しいのではないかと考えている。最低限のケアを人間から受け、あとは自由に走り回れる彼らは、家で過保護に育てられているペットよりも幸福度が高いと考えている。だけれども、これを日本で実践するのは難しいかもしれない。

私はできるだけ人間本意にならずに、動物の権利を守っていきたいと考えている。このように世界で異なる動物愛護の基準を知ることは、人間中心的な動物愛護の考えを抜け出し、本当の意味で動物たちの幸せを保護するために役立つだろう。


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