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ハンナ・アーレント「人間の条件」から、「労働と余暇」について考える。

僕はたぶん、多趣味なほうだ。

趣味はいい。
何かに没頭できる時間ほど、心地の良いものはない。
人生における余暇を、目一杯楽しむ為のツールとして、趣味は多ければ多いほどいいと思う。

「労働と余暇」

アーレントは言った。

現代人には、余暇が増えすぎた。

かつて人間は、生命の維持に必要なことを行うことで精一杯だった。
水を飲みたければ、水を汲みに川へ行き、
食物を食べたければ、狩りをし、田畑を耕す。
目一杯の「労働」をして、その分の「必要物」を手に入れた。

蛇口を捻って水を飲む。
コンビニへ行けばなんだって食べられる。
掃除も洗濯も機械がやってくれる。
テクノロジーの進化した現代では、様々な生命活動が簡略化され、余暇が増えた。

ように見えるが、僕はこの意見に反対だ。
古代、必要物の為の労働があったなら、
現代では、必要物と交換可能な「金」を稼ぐ為に皆労働しているからだ。
ただ、その「労働」と「必要物」が繋がっていないから、やりがい、つまりは生きがいを感じにくくなった。
なんでも便利にできるようになったからこそ、生きていることが当たり前になったともいえる。


アーレントは、こうも言っている。

余暇は、労働から獲得した富を消費することにのみ使われる時間である。

そうだとすれば、現代において生きがいを感じる為に必要なのは、その余暇であるはずだ。
生きることに必死だった古代では、労働に生きがいを感じたかもしれない。
だが、生きられるようになった現代の生きがいとは、「生きている実感」ではなく、「どう生きていくか」だ。

生きることが目的だった時代は終わり、
おおよそ寿命が尽きるまで、できる限り幸福に、後悔のない人生を送ることが目的になったのだ。

だからこそ、労働ではなく、余暇を充実させることが現代の使命であり、
だからこそ、世界の娯楽産業は進化し続けている。
芸術、スポーツ、ゲーム、YouTube、映画にアニメ。
世界はエンタメで溢れている。

さらに現代では、余暇を楽しく過ごす為の趣味で、金を生み出すことができる。
芸術家、小説家、スポーツ選手、ゲーム実況者、YouTuber。
本来、労働とは別の、余暇であるはずの行為が金を生み、ついには労働を必要としないところまで辿り着いた。
余暇の遊びであったはずのスポーツが、大衆を熱狂させる興行になり、
学習教育の邪魔者であったゲームは、eスポーツと呼ばれるようになり、
個々人が、あらゆるコンテンツを創り、他者を感動させ、金を得る。
本来、労働の余りであるはずの余暇を作業時間として確保するために、労働を疎かにし、必要物すら僅かに芸術活動を続け、死後賞賛を浴びるような芸術家までいたのだ。

これらの行為は全て、生命の為の必要性がない。
水も、食物も生まず、金を生むかどうかもわからず、もしくは金を生むつもりなど始めからないつもりで、余暇を全力で何かに費やす。
その結果、極貧のまま生命を終える者もいれば、余暇が金を生み、必要性を得る者も現れる。
金を生み出したこの余暇での行為を仮に「仕事」と名付ける。
アーレントは、「仕事とは、作品を生み出す制作活動のこと」と言っているが、この定義とは少し違うと思って欲しい。

「労働と仕事」

「労働」と「仕事」。
この二つを区別する壁はあまりに不明瞭だ。
現代において、どんな「労働」も「仕事」になりうるし、逆に、どんな「仕事」も「労働」になりうる。
余暇での行為が金を生み出した結果が「仕事」だと言ったが、これは「労働」が「労働」である場合だ。
現実では、「労働」が「労働」である明確な基準などない。
なぜなら全ては同じく「金」を生み出す行為だからだ。
「金」を得て、それを「必要物」と交換する。この構造が同じである限り、サラリーマンも、小説家も、YouTuberも同じだ。
余暇からサラリーマンは生まれないが、サラリーマンを余暇にする人間はいるかもしれない。


この現代には3種類の人間がいる。

①「労働」で金を得る者
②「労働」で金を得て、余暇に「仕事」でさらに金を得る者
③「仕事」で金を得る者

①は大多数の人たちだ。
「労働」で得た金を消費し、余暇を充実させる。アーレントの言う余暇がこれだ。

②はいわゆる副業をしている人たちだ。
だが、副業をする人すべてが当てはまるわけではない。
「労働」+「仕事」ではなく、「労働」+「労働」の場合もあるからだ。
後者の場合は、①ということになる。

③は先に述べた、芸術家やスポーツ選手、YouTuberなどがそうだ。

しかし、これらは全て確定的でない。
例えば、あるサラリーマンが、「労働」として営業活動をしていたが、その行為にやりがい、生きがいを感じていて、苦痛を感じていなかった場合、それは「仕事」と言える。
また、野球が大好きな少年が「仕事」として金を貰えるようになるが、なんらかの理由で野球を続けることが苦痛になったとしても、金を稼げる手段が他にない場合、野球選手を続けることは「労働」と言える。


ここで、「労働」と「仕事」を区別するキーワードが現れた。
「苦痛」だ。

「必要と自由」

アーレントは労働について、こう述べている。

労働することは必然(必要)によって奴隷化されることであり、この奴隷化は人間生活の条件に固有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。
だからこそ、必然(必要)に屈服せざるを得なかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることが出来たのであった。

つまり、かつて人間は苦痛の伴う「労働」を奴隷に押し付けることで、「自由」を手に入れようとした。
さらに、アーレントは「自由」についてこう言っている。

人間の自由とは、常に、自分を必然(必要)から解放しようという、決して成功することのない企ての中で獲得されるものだからである。

しかし、技術発展に伴い、「労働」に用いる道具も便利になり、生命維持のための肉体的な「苦痛」がなくなっていく。
そして人々は、必要物に縛られていることへの意識がなくなっていき、その結果として自由になろうとする動機が生まれづらくなる。
アーレントは、これを悲観的に捉えているが、僕はそう思わない。

まず、現代において、「労働」から「苦痛」がなくなっているかという点。
これはそもそも間違っている。
たしかに昔に比べれば肉体的苦痛は改善されているかもしれないが、なくなったわけではないし、精神的な苦痛というのもある。
今も昔も「労働」には「苦痛」がつきものだ。

そして、自由になろうとする動機が生まれなくなっていくという点。
これは単純に、自由を手に入れているからだ。
世界の全てがそうではないことは重々承知の上で言うが、今やほとんど生命維持の必要性などないも同然だ。
国が最低限の生命の維持を保証してくれているからだ。
これはつまり、我々は既に必然(必要)から解放され、「自由」であるということだ。
ヴォルテールは言った。

自由であろうと望んだ瞬間に、人は自由となる。

今やこの言葉は、真に実現されているといえる。
我々を真の意味で縛り付けているものなどなにもない。
だからこそ「労働」に「苦痛」がつきものだとしても、それが「自由」の為の必要悪である必要はない。

「余暇」での「苦痛」のない行為を「仕事」とする。
「労働」から「苦痛」を取り除いて「仕事」とする。

これが、我々が選ぶことのできる「自由」だ。
いや、もう一つ、

「労働」を「労働」と割り切り、その富を消費することで、「余暇」を最大限に充実させる。

この選択肢が、排他されることがあってはならない。
「仕事」で金を生むことは、難しいことではあるが、それが「労働」よりも偉大であるとするのは間違いだ。
我々は、金を得るために「労働」をするが、そもそも金は必要物を得るための制度でしかない。
必要物を手に入れたり、それを助ける道具を使ったり、余暇を充実させるためには大多数の「労働者」が必要不可欠だ。
近代社会は「労働」によって成り立っている。

まとめ

この「労働社会」において、「労働」は必要不可欠であるが、それに支えられた現代基盤は強靭で、必要からの解放をほとんど達成している。
自由である人生をどう生きるかは我々次第であり、それはつまり余暇をどう過ごすか、と同義である。
余暇によって「苦痛」のない「仕事」を生み出せることも踏まえると、余暇の時間は、労働によって得た富を消費するだけの時間ではなく、様々な活動に挑戦し、充実と可能性を模索する時間であるといえるだろう。
(※アーレントは「労働」「仕事」のほかに、「活動」という3つの類型を示しているが、ここでは割愛する。)

多趣味である僕は、こういった観点では意義のある余暇を過ごしていると思いたい。
ここまで読んでくれたあなたが、余暇をどう過ごすのか、それはあなただけが選ぶことが出来る自由だ。
最後に再度、アーレントではなく、ヴォルテールの言葉を記しておく。

「自由であろうと望んだ瞬間から、人は自由となる。」

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