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短編「鼻垂れ錬金術師(アルケミスト)」

 僕は小学一年生だ。
 昨日すごいことがあったんだ。お母さんがコーヒー牛乳の作り方を教えてくれたんだ。目の前で見ていたけど、すごかったよ。だって白いのと黒いのが混ざると茶色になるんだよ。なんで? 青でも赤でもないんだよ。
 翌日、僕は小学校の帰りの会の前でおばあちゃん先生に聞いたんだ。こうやって。
「ねえねえ、先生。僕、帰ってもいいかな」
 続けて
「ちょっと早く帰ってやりたい事があるんだよね」
 すると先生は
「うん」
 僕は—コーヒーミルクが作れるぞ—と思ってワクワクで心を打たれて世界は真っ白になった。
 そうして次の先生の言葉が右の耳から左の耳へ流れた。
「—ちゃんと帰りの会が終わってからですよ」
 僕の心にその言葉は残っていなかった。

 僕は一目散に帰宅した。

 僕はひたすら先日の母の手作業を思い出していた。
 えっと、たしか冷蔵庫から牛乳の紙パックを取り出してからコップに注いで……。それから、それから……? やかんに水を入れて火を点けて沸かすんだ。やかんがピーっと鳴ったらちゃんとできた証なんだ。僕は知ってるんだぞ。偉いだろう。
 それから、それから……。もう一つのコップにインスタントコーヒーの茶色い粒を入れて、そこにお湯を足す。すると「ブラックコーヒー」と呼ばれるものができる。
 ブラックコーヒーと牛乳は全く違う存在だよね。飲めばそれがわかる。だって味が違うから。見た目の色も違う。
 その二つの違うものが混ざるとどうなるだろうか? 上っ側牛乳で、下の方はブラックコーヒーに分かれるのかな?
 よし、試してみよう!
 やかんの鳴る音がした。僕はやかんを取りに走った。ちょっと重たく感じた。
 僕は足場にしていた台から下りて、熱いから慎重に、やかんを抱えてリビングへ向かった。
 そこには用意していた牛乳パックとコップが二つとインスタントコーヒーの瓶が置かれていた。
 よし。実験の準備が整った。
「オペ。開始」
 テレビでそう言ってた言葉をなぞって、マネしてみた。
 早速僕はコップにやかんからお湯を注いだ。そしてやかんを脇に置いた。
 あー。やかんが重かった。
 僕はお湯を注いだコップを手で触った。
「あったかい」
 そうして僕はインスタントコーヒーの粒を入れようとした。
 おっと。スプーンが足りない。
 僕は駆けてスプーンを取り出して来た。
 コーヒーの粒をスプーンで掬い取って、お湯の中にドバッと入れた。
 すると。お湯の表面にコーヒーの粒が浮いて、そこからゆっくりと黒色が透明な水を侵食するかのように流れていく。だんだんと透明なお湯が茶色くなっていった。でもこれは「ブラックコーヒー」じゃない。さしずめ「ブラウン」コーヒーだ。
 お母さんはどうしていたっけ?
 そうだ! ブラックコーヒーを作るにはスプーンで混ぜればいいんだ。
 カランカランとスプーンを混ぜるときの音が心地よく鳴る。
 透明なコップを外から見てみると完全な黒色になっていた。
「ヨシ!」
 僕は取り出したスプーンを舐めた。
「うえっ。苦すぎ! 大人は分からんなあ。どうして毎日こんなものを飲むんだろう? サイダーの方がずっと美味しいじゃないか。よし、牛乳で口直しだ」
 僕はもう一方のコップから牛乳を口に含んだ。
 とても乳くさかった。
「うえっ。やっぱり牛乳って何だか好きになれないんだよなあ。麦茶の方が好きだ」
 僕は唾を飲み込んだ。喉に牛乳の膜が張っている感じがして、とてもイヤな気持ちになった。
「ヨシ。実験の続きだ」
 僕はブラックコーヒーのコップを手に取った。
 そしてゆっくりと牛乳の入っているコップに入れようとした。
 そこで気づいた。
「おっと、あぶないあぶない。このまま注いだら溢れちゃうんじゃないかな」
 僕はコーヒーと牛乳を半分になるまで飲んだ。
「うえっ」
 おもわずゲップが出た。
 お腹がいっぱいになったところで、実験の再開だ。
「ヨシ。オペを開始します」
 僕はコーヒーの入ったコップを、牛乳の入ったコップの縁に付けて傾けた。ゆっくりと。
 少しカーペットにこぼれたが、そこは気にしない。
 すると、僕の予想していたことと違うことが起きた。
 ブラックコーヒーと牛乳は二層に別れることはなくて、コーヒーが注がれた所からどんどんと茶色になっていった。
「ヨシ。オペは成功です」
 僕は意味も分からず、そうつぶやいた。
「ヨシ。飲んでみよう」
 一口飲んでみる。
 すると驚いたことに、さっき飲んだブラックコーヒーとも牛乳とも、三つ目は味が違った。
 今、僕の目の前には空のコップと、コーヒー牛乳の入ったコップがあった。
 よし、もう一度ブラックコーヒーを作ってみよう。
 僕はインスタントコーヒーにスプーンを突っ込んだ。そして掬い上げた。
 不思議だ。今度はスプーンの裏側にも粒が付いている。何でだ? そうか。ミルクが付いているからだ。
 スプーンで掬い上げた跡を見ると、インスタントコーヒーの粒が湿っていた。何だかマズそうだ。でもいっか。コーヒーはお父さんしか飲まないし。お父さんは鈍感な人だから気づかないだろう。
「ヨシ。オペを再開します」
 コップにコーヒーの粒を入れた。
 スプーンを置いて、やかんを取る。
 やかんの下にあった雑誌がシワシワになっていた。あとでお母さんに怒られちゃう! どうしよう? あわあわ。
 いやでも、もうどうすることもできない。諦めよう。
 実験の続きだ。そうしよう。
 僕はコーヒーにお湯を足してまたブラックコーヒーを作った。
 やかんをまた、シワシワになった雑誌の上に置いてブラックコーヒーを味わった。
「うん。やっぱりコーヒー牛乳とコーヒーは別のものなんだな」
 二つの飲み物、液体を飲み比べてみた。
 もうお腹はタプタプだ。
 しばらくブラックコーヒーの入ったコップと、コーヒー牛乳の入ったコップを見比べていた。
 やっぱりコーヒー牛乳は黒と白には別れないなあ。何でなんだろう?
 僕がエントロピーのことを知ったのは後の事である。
 すっかり冷え切ったこの二つの液体はどうしようか。
 するとガチャリと玄関の音が聞こえた。
「お姉ちゃんかな。お兄ちゃんかな」
 振り返ると、そこには真っ赤な顔をしたお母さんが立っていた。
「お母さん! 違うの、これは。……。雑誌。シワクチャにしてゴメンナサイ」
 すると
「そうじゃないわ。とても心配したのよ。突然に学校から電話がかかって来て。お母さんは仕事中だったけど、先生からだったから出たの。そしたらなんて言われたと思う?」
 僕は
「わかんない。あ、わかった。先生きっと、宿題忘れてますよって言ったんでしょ」
 お母さんは
「違うわ。先生はこう言ったのよ。—大変です。息子さんが居なくなってしまいました。クラスのみんなで学校中を探していますが見つかりません。帰りの会が始まる前に、最後に私に声をかけてくれたんですが、その時には帰りたいと言ってました。なのでお母様は自宅の方を探してもらえないでしょうか—ってね」
 お母さんはリビングのテーブルの上を見て言った。
「何ですかこれは。やかんをこんな所に置いて……」
 やかんをどかすと
「あっ! 雑誌がシワシワになってる。もしかして熱いやかんだったの? 危ないじゃない。火傷でもしたら」
 そうしてお母さんはキッチンへ向かった。
「あっ! 火が点けっぱなしじゃないの! とても危ない。火事になったらどうするの! あなた責任が取れるの?」
 僕は
「ごめんなさい」
 と言うしかなかった。
「学校のみなさんにも心配かけてしまったし、火事未遂も起こした。これはもう、お仕置きね」
 お母さんにお仕置きされちゃう! どうしよう。大変だ。
「おしりペンペン、百回ね」
 僕はタプタプになったお腹で急におしっこがしたくなった。
「僕おしっこ」
「こら! 逃げるんじゃありません」
 お母さんはトイレまで追いかけて来た。
 僕は今、とてもトイレがしたい。
 お母さんがトイレのドアを引っ張った。
 僕は言う。
「トイレを覗くなんてお母さんのヘンタイだ!」
「違います」
 お母さんはドアから手を離した。
 僕はトイレを済ませて一息ついた。
「ふう。……はあ。ここを出たら、お仕置きが待ってるのか。でもこのままトイレの中ですごす訳にはいかないから、出るしかないよね。僕分かった。人生はなるようにしかならない」

 その後のことまでわざわざ語ることもないだろう。
 遠き日の思い出だ。
 私はAという液体(コーヒー)と、Bという液体(ミルク)とを混ぜて、Xという液体(コーヒー牛乳)を創るという化学反応の原体験をした。それは未来のアルケミスト、錬金術師つまりは化学者の第一歩だった。

 次の日、学校に行くとクラスでやんちゃな子から言われた。
「お前、すげえな。学校が大騒ぎしてたぜ。俺のやんちゃでも、あそこまでは騒がないぜ。先生の慌てた姿、ウケたぜ。お前、すげえな」
「そうでもないよ。あはは」

 僕はせっかちすぎた。
 そして一目置かれたのだった。
 今ではこの記憶は遠すぎて、夢のように感じる。もしかしたら、私の妄想も混じってるのだろう。
 それが人間のよさだ。


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