『カレンダーストーリーズ』ウラ5月 「若葉が薄氷の上で」 【小説】作:藤井 硫
“もし、今君が歩いているところが薄氷の上だったらどうだい?もう少し慎重に歩くだろうね。 今、僕達が立っている所はコンクリートだけど、しかし、薄氷と何ら違いはないんだよ ”
1
深夜一時半。毎日繰り返す他愛ない会話が終わり、彼女との電話を切って僕の一日が終わる。四時間程睡眠を取り、朝六時半には目が覚め、七時半には家を出て、八時十五分には始業開始のチャイムが鳴る。終業のチャイムが鳴ってもタイムカードを切って退社する者はいなくて、同僚や上司の仕事に対する熱気に僕もあてられていた。
四月の入社からまだ一ヶ月しか経っていないのに、すっかり同期や先輩に馴染んでいて、毎日が楽しくてしょうがない。
「最近の敏郎の声、充実しているんだなって分かるよ」
大学院生の道を選んだエミは、一足早く社会人になった僕の話をいつも興味深く聞いてくれた。
座学研修生だった時に知り合った面白い同期の話だったり、講師が絵に書いた様なお局様だったり、その殆どが下らない事ではあったけど、僕と彼女の関係は上手く行っていたし、順風満帆という言葉は僕の為にあるんじゃないかと思ってさえもいたぐらい、まあ、とにかく想い描いた未来は明るかったんだ。
2
“不幸ってやつはいつも順番待ちをしているんだ。今か今かとリボルバーの中でジッと腰を据えて待ち構えている。撃鉄が自分を叩いて獲物を撃ち抜けるのをね。 ”
中学時代に読んだアメリカ人が書いた小説のクライマックスは悪役のキザったらしい台詞から始まる。主人公がライバルにマグナムを向けられて絶体絶命のシーン。シリンダーには銃弾が一発。交互に相手を撃ち合う変則的なルールだった。
“ 自分でコメカミを撃ち抜くより、相手に殺された方が不幸の密度は高まる。何故か分かるか?覚悟を持てないまま命を奪われるからだ。 ”
そう言って結局、ロシアンルーレット勝負に負けた悪役の言葉は、ヒロインとハッピーエンドを迎えた主人公よりも、世の中を正しく代弁していたのだなと、彼女の浮気現場を見て十年越しに理解した。
僕の知らない奴と楽しそうに腕を組む姿を見て、ロシアンルーレットで負けた悪役と僕の姿が重なった。え。ちょっと待てよ?てことは僕が彼女の物語では悪役で負け犬って事か?ここで途中リタイヤ?ハッピーエンドは別の奴と、っていやいやそんな馬鹿な、あるかよそんな三流小説みたいな現実が。
でも残念ながら有ったし見ちゃったし、確信しちゃったんだ。その証拠に普段なら電話をしている時間に僕はベッドの中で胎児の様に膝を抱えている訳で、電話も鳴らないし出ない訳で。……僕が何したって言うんだよ……もう、生きてたって楽しくないじゃないか……。
3
幸か不幸か、いや不幸ではあるんだけど、会社がゴールデンウイークにならって休めるところで助かった。昨日のショックからまだ立ち直れていない僕は夕方になってもベッドから起き上がれずにいた。何も考えたく無いのに頭の中からは彼女と過ごした楽しい時間と、昨日の残酷な出来事が行ったり来たりして離れないし、記憶の振れ幅が大きくなるほど動悸が激しくなって吐き気もしてくるし、とにかく最悪なゴールデンウイークの始まりだった。
なんでこんな事になってしまったんだろうか。一ヶ月前の今頃は未来に希望を抱いて座学研修をしていたのに。まだ一ヶ月しか経っていないのに、随分懐かしく感じるな……。
……あの頃何の研修してたっけ。就業規則だったり、パソコンのセキュリティについてとか……は初日か。随分手厚く研修するんだなって感心したよな。……そうだ、体調管理にも煩く言われてたな。
“ 社会人たるもの、風邪で当日休をするなんて自分は身体の管理を怠っていますと社内中に公言しているようなものだ。いつまでも学生気分でいられては困るからね。 ”
随分と念を押すもんだと戸惑ったもんだ。ブラックな職場を選んでしまったものだと嘆いてた同期もいたっけ。
“ とは言ってもだ、今は罹患するものもいないと思うが、皐月病にもし掛かったら速やかに会社に報告をして病院に行く様に。 あれだけは洒落にならないからな。 ”
欠伸を噛み殺さなければならないような退屈な研修に、急に聞きなれない単語が飛び込んできた。気になったのは僕だけではなく、勢い良く起立をしてその日初めて質問をしたものがいたぐらいだ。
“ 君らぐらいの世代ならあまり知らないだろうがね、ウィルス感染性の怖い病気があるんだよ。感染力が強く、罹患すると最悪の場合死に至る事もある病だ。今はめったな事では感染者は現れないから、参考程度に思っていて欲しい。 ”
“ 皐月病は精神的な疾患ではあるが、抑うつから始まり、原因不明な嘔吐感、極端な無気力、不安感、焦りなどが出てくる。この中でも一番怖いのは極端な無気力だ。何もやる気が出ない、こう言えば可愛く聞こえるが末期症状では呼吸をする事すらも億劫になってくる。そうなるとどうなる?そう、単純に言えば死ぬ。恐ろしいのは感染力が強力なので、周りの人間を巻き込む事になるんだ。死の連鎖。我が社は従業員数三百の中小企業だ。仮にここにいる誰かが罹患して、そのまま出勤したとしよう。この研修室にいる全員に感染し、社内にいる人間にも感染する。帰宅する際には電車にもバスにも乗るだろう。ねずみ算式にあっという間に感染者が日本中に広がり、この国は崩壊するだろうな。 ”
研修担当の話に血の気も引いた者も沢山いたが、一部分は訝しげな表情を浮かべていた。
“ 質問をいいですか。そんな強力な感染力を持つ病気が、何故過去の病気扱いされているんですか? ”
それはもっともな質問だった。それに僕らの世代では聞いた事がないものがいるぐらいなんだ。
“ 単純な話だ。ワクチンが発明されたんだよ。幼稚園児の頃に君らは摂取しているだろうから、打ち忘れない限り問題ないんだ。さ、そのワクチンも含めて、お前らは今からうちの会社で学び、顧客に人の為になる薬を売りつけるんだ。それを今日は教えていくぞ。 ”
……え。あれ、まずいんじゃないか。極端な無気力……。不安感と焦り?なんだそれ。今の僕じゃないか。ちょっと待ってよ。いやいやいや。だってワクチンもあるし、幼稚園で摂取したって……。僕は摂取しているのか?どのくらいの時期に摂取するものなんだ?そもそもそんな事小学校であったか?……駄目だ、覚えていない。胃液がこみ上げて来る。冷静になれ冷静になれ。僕は単純に彼女の浮気現場を見てしまったから落ち込んでいるだけであって、それが皐月病に罹患している事には繋がらないだろ。……そもそも皐月病ってどうやってなるんだ?大事な事は教わってないぞ。感染力が強い病気で……じゃあ始めに罹患するキッカケってなんなんだ?確か研修資料に少しだけ書いて有った気がするけど、まだカバンの中に有った筈だ。
“ 主な原因は定かになっていないが、罹患した患者は共通して予期せぬ不幸、自死を想像してしまうぐらい強烈なショックにあっている。よって精神障害の一種と考えられる ”
身体が無意識に黒いものを吐き出せと、食道の奥から粘度の高い何かが込み上げてきて、トイレに駆け込む事すらままならず、ベッドの上に吐瀉物をぶち撒けた。
なんだよ、そんな、そんな事って、僕が皐月病に掛かったなんて、あるもんかよ……。
4
気力を振り絞り、元同期のタケルに電話を掛けたらワンコール目で出てくれた。
素行に問題が有り、研修中から目を付けられていた問題児だ。喫煙室でライターを借りた事がキッカケで話す様になり、会社帰りには良く二人で酒を飲みに行く仲になった。タケルから出てくる話は会社の愚痴ばかりで、それが特に理不尽ではなく理路整然としていて、感心する事も多かった。タケルの不満は日増しに昂まっていって、研修最後のカリキュラムで辞表を叩きつけて「俺に着いて来たい奴は一緒に来いよ。こんな会社に一生居るなんて馬鹿らしいぜ」と捨て台詞を吐いて会社を出て行った。あまりにも突然の出来事だから、タケルの言葉通りに出て行く奴はいなくて、幸い大事にはならなかったけど、なんとなく格好良く思ったものだ。
「どうしたんだよ、こんな真昼間に。日が高い内は酒を飲む気にならないぜ」
近所に住んでいるタケルに電話をするのは飲みに誘う用事ぐらいしかなかったからしょうがないけど、もっと他の発想が浮かばないものかね。
「今時間があればで良いんだけど、ちょっと相談に乗ってくれないか。もしかしたら厄介な事になったかも知れないんだ」
タケルは酒好きで喧嘩っ早いところも有るけれど、そこを差し置いても真剣な話をちゃんと真剣に聞いてくれる所で、同い年にも関わらず、先輩や上司に相談したみたいにしっかりとアドバイスをくれるから好きだった。
「なんだよ、ちゃんとした話なら会ってしようぜ。暇してるし、ファミレスでも行くか」
「いや、会うのはマズい。取り敢えずこのまま聞いて欲しいんだ」
彼女の浮気現場を見てから今に至るまで、内容は大して無いにも関わらず、説明し終えるまでに二時間も掛かった。途中何度かトイレに駆け込んで胃液も全て出し切ったし、段々話すのも思考が纏まらなくなって言葉が出て来なくなったからだ。
「それで?病院には行ったのかよ?」
「罹患してから……行ったって、あれだろ。それに移って、日本中がダメになったらあれするじゃないか」
「他の心配している場合かよ?それに研修で言ってたろ、うちのワクチンのお陰で感染者はいないって。当然医者もワクチンを接種しているから移す心配もないんだよ。稀にお前みたいに接種し忘れたボンクラが居るみたいだけど、まあ五月中じっとしてれば治るって言うし、今は恐ろしい病気じゃないんだ。安心して行ってこいよ。不安なら俺が一緒に行ってやろうか?」
タケルの言葉が耳からゆっくりと心に浸透して、僕の身体を落ち着かせた。
「いや、親戚が、精神科医だから後で来てもらうよ、有難うなタケル」
「俺はお前の事が心配だから言ってるんだよ、気にするな。ただ、なるべく早めに診てもらった方がいいと思うけどな。どうせ親戚もすぐ来てくれる訳じゃないんだろ?うちの近くに俺のかかりつけが有るからそこに行こう。うちの会社もそこと取引あるし、ついでだから顔売っとけよ」
その後タケルは家まで迎えに来てくれて、病院まで連れて行ってくれた。意識が朦朧として断片的にしか覚えていないが、確かに病名は皐月病と診断された。
5
目が覚めると身体に異常な重力を感じた。昨日処方された薬が切れているんだろう。ベッド脇のテーブルからなんとか携帯を取るとタケルから着信が一件あった。彼女からの着信じゃないのがズッシリと来たが、タケルの優しさが今は素直に嬉しい。
「今起きたのか?薬のお陰で身体が重いだろ」
昨日と同じくワンコールで電話を取ってくれた。タケルはゴールデンウイークだと言うのに、暇を持て余しているのだろうか。
「ところでさ、お前会社にはなんて報告するんだよ?今月いっぱい家から出られないんだろ?」
なんの事を言ってるのかまったく理解出来ない。まだ思考回路が上手く動いていないのか?
「いや、でもゴールデンウイークが終わったら会社に行かないと……」
「ダメだって言われてたろ?感染力が弱くなって移る事は無くなっても、まだお前みたいな奴が居る事には変わりないんだからさ。それに皐月病に掛かったなんて会社に報告でもしてみろよ。クビにはならないまでも、出世コースは無いぜ?ワクチンも打たない自己管理能力が無いやつってレッテルを張られるだろうし、大事な時期に会社を丸々一ヶ月も休むんだ。同期にも差を付けられるだろうしな」
なんだよそれ、じゃあどうすりゃいいのさ……。
「啖呵切って辞めた俺が言うのも何だが、給料の面で言えばあの会社は悪く無いし、お前の学力じゃ再就職も難しいだろうな。……なんとかしたいか?」
「そりゃ、そりゃあ出来るなら出世もしたいさ。彼女にあんな形で裏切られて、仕事もダメになったら、もう何をして生きていけばいいんだよ?それこそ皐月病じゃなくても死にたくもなるさ」
「そんなに重要なものかね。……わかった。お前本気であそこに残りたいんだな?死ぬより怖いんだな?」
何をそんなに念を押すんだろうか。誰だって生きる目標がなくなったら、死ぬより怖いに決まっているじゃないか。
「家を出るぐらい回復してきたら電話しろ」
そういってタケルは電話を切った。
6
その後二日間、処方された薬と栄養剤を飲み続け、有る程度立てる程に体調は回復してきた。まだ外を歩くのは不安だったけど、これ以上ベッドに横になっているのも精神的に良く無いと思う事が出来たので、気力を振り絞ってタケルと会う約束をした。
幸いタケルが車で迎えに来てくれたので体力的な心配は無くなった。
「お前、こんな車に乗れる程に金持ってたんだな」
ツーシーターの外車に乗ってきたので少し戸惑ってしまった。僕と同い年で仕事をしていない筈なのに。それに比べて僕なんかホームセンターで買った自転車ぐらいなのに。
「妬むよ。また皐月病が重くなるぞ。俺はお前と違って稼ぐ方法を知っているからな。別に大した事じゃないさ。金って言えばお前、十万持っているか?」
「彼女と旅行に行くつもりだったから銀行にいけばそれぐらいあるけど……なんだよいきなり」
「この後必要になるんだよ。途中で銀行よるぞ。降ろしてこいよ、どうせ使う充ては無くなったんだろ?」
確かにそうだけどさ……何するつもりなんだよ。
古びた雑居ビルの前に車を止めると何処かに電話をし始めた。相手の声は良く聞こえなかったけど、初めて電話をする相手には聞こえなかった。
「悪いな。このビル、エレベーター無いんだよ」
四階までタケルの肩に捕まりながら何とか登ると、フロア全体がガランとしていて、味気ない白いドアが目についた。
「俺はここで待っているから、行ってこいよ」
「行けってあそこ誰の家だよ?店って雰囲気でも無いし」
急かされる様にドアの前に立たされると、呼び鈴を押す前に覗き窓が開いた。
「部屋の前で騒ぐな。とっとと入れ」
血走った二つの眼球だけが覗き窓から見えた。ここまで来たら今更引き返す空気でもないし、もうどにでもなれだ。
「聞いたよ。皐月病だって?今時珍しい病気に掛かるな」
血走った眼球の持ち主は身持ちの良さそうな中年の男性で、言葉使いの荒さとは違って紳士的な雰囲気もあった。
「あまりここに長居をしたくないんでね。とっとと済まそう。金は持って来ているか?」
内ポケットから銀行の封筒を取り出すと同時にテーブルの下に手を伸ばして白い袋を取り出した。此処でいつも何かをしている訳ではないんだろうか。とっととおじさん(とっととが口癖の様に思えたから勝手につけたあだ名なんだけど)もあまりこの部屋の居心地が良くなさそうに思えた。
「これをな、一日朝と昼に、二錠飲むんだ。夜は飲むなよ。寝れなくなるからな。五月中は欠かさず飲むんだ。そうすりゃなんとかやり過ごせるから。少なく飲んで余らそうと思うなよ。五月が終わったら皐月病も治るんだ。わかったな」
随分と早口で捲し立てる様に説明するな。なんだか感情もこもってないし、言わされている様な……。
「これってなんですか?薬ならもうちゃんとした医者に貰ってますけど……」
「日本ではまだ否認可の薬だ。出処はちゃんとしているが、なにぶん効き目が強いんでね。お前さんみたいな奴が飲む分にはいいが、使い方が難しいのさ。いいな、絶対多く飲んだり少なく飲んだりするなよ」
とっとと説明し終えると、十万円が入った封筒を懐にしまい込んで僕を部屋から追い出した。階段の前にはタケルが退屈そうな顔でタバコを吹かしていた。タケルがなんで金回りが良いのか、なんとなく理解が出来た。いろいろタケルには聞きたい事があったけど、特に話もしないまま、そのまま自宅まで送ってもらいその日は謎の薬を一錠飲んで、部屋でじっとしていた。
7
薬を飲み始めて二日目には身体が楽になっただけでなく、行動力も回復してきた。朝六時には目が覚めて、土手沿いを散歩なんかしたりして、日光を身体全体で浴びる事も出来た。
ゴールデンウィークが終わる日にはご飯を一合も食べられたし、気力も以前より増している気がする。頭の中に掛かっていたモヤも晴れた様に、思考もすっきりしている。これなら明日からの仕事もなんとかなりそうだ。後はとっととおじさんの言う通りに量法をきちんと守れば、五月は乗り切れそうだ。彼女からの着信は、まだ無かった。
研修が終わってからは先輩に付きっ切りで得意先周りが始まる。最初は担当医師に顔を覚えて貰う事から始まるんだけど、その医師の趣味とか夫婦関係なんかもそれとなく聞き出す事も仕事の内だと教わった。教わる事はなんでも吸収してやろうと、とにかくガムシャラに頑張れた。これもあの薬のお陰なんだろうか。薬を飲むとなんだかとても頭が冴えて来て、一度言われた事でもすぐ覚えられるし、要求にすぐ答えられるんだ。効き目が強いってこの事を言っていたのだろうか?いや、きっと皐月病にさえなってなければ、あんな薬を高い金を出して飲む事も無かったし、元々の僕の能力もきっと発揮出来ていた筈だ。そうに違いないさ。そもそもあいつが浮気なんてしなきゃ……。僕の何がいけなかったんだろうか……。
先輩との得意先周りで、以前診察を受けた病院に行くことになった。マズい。担当医師が僕の診察をした医者じゃないか。僕の顔を当然覚えている筈だし、皐月病に罹った事を先輩に知られたらそれこそクビになるんじゃないか?
「しまった。新商品のパンフレットを車に置いてきたな。俺ちょっと取って来るから、お前ここで待っててくれよ」
助かった。今の内にあの医者に会ってなんとか口止めしておかないと。でも、なんて言えば良いんだろうか。早く考えないと先輩が戻って来てしまうし、どうすれば良いんだ。
その時、内ポケットに入れていたあの薬の事を思い出した。薬の効果か知らないけど、飲むと確かに頭が冴えるんだ。今日の分はもう二錠共飲んでしまったんだよな。飲み過ぎるなと言われていたけど……。一錠ぐらいなら大丈夫だろ。それに今を乗り切らないとクビなるかも知れないんだ。それこそ本末転倒じゃないか。
トイレに駆け込んで薬を袋から出そうとした時、個室に誰か入っている気配がした。慌ててしまって一錠だけ出すつもりが二錠出て来てしまった。取り敢えず時間が無いし、そのまま二錠とも口に放り込んで飲み込んだ。同時に個室から出て来たのは担当医師だった。
「あれ、 宇津さんじゃないですか。今月中は大人しくしておくようにって言ったのに、今日は違う外来受けに来たんですか?」
「ええ、ちょっと風邪気味で念の為にと思いまして……。丁度良かった、さっき会社の先輩と待合室で偶然会いましてね。僕ももう少ししたら復帰して改めて先生の所にお伺いしようと思っていたんです。処方して貰った薬のお陰で皐月病の方は大分楽になったので、復帰後の練習がてらに、先輩の商品説明をする時横に居させて貰っていいですか?先輩、僕が皐月病に罹ったって知ったら酷く心配してくれましてね、安心させてあげたいんです」
「そうですか……。まあ、あまり無理はしない様に。先輩も分かっているなら、私からはなにも」
上手くいったか?これで先生が何か余計な事を言いそうになったら適当に僕が口を挟めば良いんだ。なんとかアドリブで後は乗り切ってしまえばいい。念の為、すぐ薬を飲める様に準備だけはしておくか……。
営業は無事に乗り切れたけど、さっきから気持ちが昂ぶって仕方が無い。移動中の車内でも先輩に何か質問をしないと落ち着かない。
その後周った得意先でも先輩を差し置いて商品説明をしまくった。先輩は面白くなさそうな顔をしていた。
「お前いつの間に勉強したんだよ。俺より商品知識があるんじゃないか?」
「さっきカタログを一通り読みましたし、先輩に教えて貰ったばかりじゃないですか。こんなのすぐ覚えられますよ」
「ふうん……凄いね、お前。なら俺、もういらねえな」
確かに僕は凄かった。それが怪しい薬のせいだとは、その時は考えもしなかった。
8
五月二十八日、ようやく五月の終わりが見えてきた。あれから仕事も順調過ぎる程で、上司の評価もうなぎ登りだ。休みの日もジッとしているのが落ち着かなくて、出掛けようとしていた矢先、久しぶりにタケルから電話があった。
「あれからどうだ?凄いだろ、あの薬」
「お陰様で調子が良すぎて怖いぐらいだよ。ありがとうなタケル」
「なら良いんだ。……飲みすぎたりしていないよな?」
あれから量法はキチンと守って飲んでいるし、昂り過ぎた事はない。あの時は確かに飲み過ぎたかも知れないけど……。
「調子良いなら飯でも食いに行かないか?駅前に上手いラーメン屋が出来たんだ。十一時に待ち合わせな。その後運動がてらゴルフの打ちっ放しにでも行こうぜ。クラブ、持ってこいよ?」
この時、僕が初めから冷静だったら結果は違っていたんだろうか。塵の様に積もっていた違和感に気がついていたらタケルの誘いを断っていたんだろうか。
待ち合わせの場所について二本煙草を吸い終わってもタケルは来なかった。待ち合わせに遅れるなんてあいつらしく無いな……。
三本目に火を付けようとした時、ようやくタケルからの電話が鳴った。
「おい、何やってたんだよ。早く食べに行こうぜ」
「悪い悪い。俺、凄いもん見ちゃってさ」
「なんだよそれ。くだらない物だったら怒るぞ」
「それはお前が改札口を見て判断しろよ」
後ろを振り向いて改札口に目をやると、連絡が来なくなった彼女があの浮気相手と親密そうに腕を組んで歩いている光景が目に入った。
身体中を巡る血液が一気に頭頂部に集まり沸騰する音が聞こえて身体中が振動し始める。ダメだ、やめろよ、こんなもの見たくないってば。せっかく良くなって来たのに、また皐月病になったらどうするんだよ。そうだ。あの薬、あの薬を飲もう。
ポケットに入っていた怪しげな薬を全て口の中に放り込み、奥歯で噛み砕いて飲み込むと、全身の震えが収まって頭の中がクリアになった。その時何を考えていたんだろう。あまり良く覚えていないけど、持っていたゴルフクラブをケースから取り出して、人並みを掻き分けて、とにかく彼女の所に行かなきゃって、それだけを考えてたんだっけ。それから、何したっけ。
了
ウラ5月「若葉が薄氷の上で」作:藤井 硫
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。
※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。
5月のゲスト:藤井 硫(ふじい りゅう)
ペン画によるイラストと、怖いもの見たさをくすぐる小説を地道に追求する無差別級アーティスト。頭の中にある面白い事をホイッと簡単に見せる事が出来ればいいのになって思いながら新しい表現方法を探求しています。
<主な作品>
文芸作品
第五回新脈文芸賞受賞
「あの場所へ」
「その日は温泉に」(號二銀 名義)
第六回新脈文芸賞受賞
「ブランコの上で踊る僕と君」
現在めさき出版ブログにて週刊連載「Mの物語」掲載中(2016年5月現在)
同ブログにて連作「エヴェレットに花束を」掲載中(全十七話)
イラストレーション
レトロゲームアレンジCD第三弾
「超ファミ・コンピ」ジャケットデザイン
●ケシュ ハモニウム(問い合わせ)
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