カレンダーストーリーズ_表紙

『カレンダーストーリーズ』オモテ2月「ガラスの凍る丘で」        【掌編小説】作:丘本さちを

 初めて見る町の夜景が僕の旅情を掻き立てた。兄の住む家は小高い丘の上にあって、冷たい向かい風に逆らいながら僕は坂道を登っていった。

 六年ぶりということになる、兄に会うのは。

 十も歳の離れた兄は、母親と起こした諍いがこじれて家を出て行った。その頃の僕はまだ小学生で、兄と母の激しい口論を怯えながら聞いていた。暴力が振るわれることは無かったが、それに近い傷をお互いが負っていた。そしてもちろん僕も傷ついていた。力任せに兄が閉じた玄関のドアの音。それが今でも耳の奥に反響したまま残っている気がする。

 夜更けにとった受話器の奥から兄の声がした。

「耕二か? 久しぶりだな」

 出ていった兄から連絡があったのは初めてのことだった。

「ずいぶん大人になったろうな。声で分かるよ。おっと、あいつには替わらないでいいぞ、お前に電話したんだ。このまま聞いてくれ」

 兄は母のことを“あいつ”と呼んでいた。その呼び名を未だ使っていることが、兄のわだかまりが消えていないことを示していた。

「耕二、実はな……」

 突然誘われた兄の住所は僕の聞いたこともない地名で、地図帳で調べてみると北の果てにある町だった。連休の日の早朝に僕は母に黙って出発をした。特急列車と各停を何度も乗り継ぎ、一日がかりの移動になった。最寄りの駅に着いたのはもう夜だった。ここからさらにバスで三十分、降りたバス停からさらに歩いて三十分かかると伝えられていた。古風な駅舎を出ると目の前の小さなロータリーにバスが止まっていた。

「最終バスに乗り遅れたら野宿だぞ」

 笑いながらおどかされたけど、あながち嘘とも思えなかった。都会育ちの僕の目には、ビルひとつ無い田舎のさびれた駅前が異常な寂しさを湛えているように映った。足下は降ったばかりの雪がぎっちりと踏み固められていて、何度も滑りそうになった。年季の入ったバスに乗り込むと、乗客は他に誰もいなかった。ガランとした空間にエンジンの震えが伝わっていた。

 リュックを肩から下ろし、固いシートに身を預けて、降りるバス停を間違えないように何度もメモを確かめた。タイヤにまいたチェーンがジャリジャリと濁った金属音を鳴らしていた。一方で窓の外の景色からは、不思議な静けさを感じた。まれに電灯に照らされた町の断片が通り過ぎていった。

「耕二、実はな……とても面白い作品が仕上がったんだ。お前に見てもらいたいと思って電話をした。次の連休に来てくれないか」

 芸術家気質。兄の性格を一言で表せばそういうことになるだろう。どうしても芸術大学に進学したかった兄とそれを絶対に許さなかった母。三度目の浪人が決まった時に爆発した母の怒りと、受験の失敗で崩れきったプライドを支えるために振りかざした兄の怒りがぶつかり、結果として兄は家を出ていった。一人でも作家になってみせると言い残して。

 バス停の周りには電灯以外に何もなかった。道路の脇には除雪されたばかりの雪の山が出来ていた。泥にまみれた冷たい塊の脇に、丘へと続く小路が隠れていた。

「耕二、お前はガラスが液体だって知っているか?」

 兄は受話器の奥から語り続けていた。

「俺はそのガラスを凍らせる方法を発明したんだ。いや、凍り付くガラスを発明したのかな? まあどちらでもいいさ。大事なのは科学的なことじゃないんだ。なあ、耕二。ガラスが凍るとどうなると思う?」

 闇夜に突風が吹くと、雪が巻き上げられて煙のようになった。僕は堪らず顔を背けた。振り返った僕の目に、先ほど通り過ぎてきた町の夜景が映った。夜気と寒さのせいで、距離感がうまくつかめない。光の点の集合体となった町は近くにあるようでもあり、遠くにあるようでもあった。

「凍り付いたガラスは光を閉じ込めるんだよ。写真のように。凍り付いた時に映っていた景色を閉じ込めるんだ。俺はこの性質を利用して最高の作品をつくった。ぜひ見に来てほしい。春が来たら間に合わない。次の連休に来てくれ。場所は……」

 物心がついたばかりの僕に兄は優しかった。十分なほど遊び相手になってくれたし、玩具も沢山つくってくれた。ただ、ひとたび自分の部屋にこもると何日も出てこないことがあった。食事とトイレ以外の時間は、部屋で自分の作品を作っているのだった。僕は兄が遊び相手をしてくれなくなることがただ寂しかったが、母にとっては学校を休んで何日も作業に没頭する兄の行動が理解不能だったのだろう。恐怖すら感じていたのかもしれない。だんだんと二人の仲は険悪になっていった。

「この土地はとても寒い。雪はそれほど積もらないけど、昼間でも氷点下なんだ。でも、そのお陰で素晴らしい作品を作ることができた……。といっても、実はまだ完成してはいないんだ。もう少し、自分が納得できるまでやり込まないと。耕二が来るまでにはなんとかしておくよ。大きくなったお前に会うのも楽しみだな」

 坂を登り切ったところに一軒の家があった。兄の家に間違いない。僕は久しぶりに会う兄の姿を想像した。記憶の中の兄の顔はもうおぼろげだが、繊細そうな瞳が僕を見つめていた。三回、ドアをノックした。が、返事はなかった。もう一度ノックしたが、ドアの音がむなしく響いただけだった。冷たい風が背中にびゅうと吹き付けた。

 もしかしたら、昔のように作業に没頭しているのかもしれない。僕は何度もドアをノックし、兄の名前を呼んだ。しかし、ドアは閉ざされたままだった。僕は家をぐるりと周り、窓という窓の鍵が開いていないか確かめたが徒労に終わった。窓はすべてカーテンが閉められていた。どの窓からも一筋の光も漏れていない。兄は家の中にはいないのかもしれなかった。玄関のドアの前から僕のものとは違う足跡が、うっすらと残っているのに気がついた。


「少しだけ種明かしをしておくよ。俺がいま創っているのは風景画なんだ。もちろん、ただの風景画じゃない。凍らせたガラスを使った風景画だ。家の近くの丘の上で描いてる。すごく見晴らしのいい丘でね。町と海が一望できる。そこにキャンバスの代わりにガラスを立てるんだ。ガラスが凍り付くとどうなる? あとはライターやマッチの火を使って……」

 僕は雪を被った足跡をゆっくりと辿っていった。きっと兄のもので間違いないだろう。きっとこの先で兄は例のガラスを使った風景画を描いているのに違いない。没頭しすぎる悪癖は直ってはいないみたいだった。それも兄らしいといえば兄らしい。降ったばかりの雪のベールのせいで足跡が見分けづらかった。僕は慎重に白い平原に点々と続いていく窪みを追いかけていった。その歩みを進める途中で気がついた。足跡の上に雪が被さっている。

 ……兄は雪の降る中でも絵を描くのを止めなかったということだろうか? 

 僕は、夜の雪原に倒れる兄の体を見つけた。駆け寄って抱き上げると積もっていた雪がはらはらと落ちた。手足は氷のように冷たかった。兄の名前を呼び、何度も頬を叩いた。返事はなかった。兄の顔は僕の記憶の中と同じで、昔の面影をそっくり残していた。

「耕二、お前に俺の作品を見てもらいたいんだ。俺の最高傑作なんだから」受話器の奥から兄の声がした。

 僕は兄の体の隣に立てられたガラス板を覗き込んだ。そこには北の町と海を一望する雄大な風景が映っていた。そして、ありとあらゆる時間帯の光景が大理石のマーブル模様のように重なって閉じ込められていた。

 劇的な朝焼けから、暖かな昼の陽差し、ノスタルジックな夕暮れ、静謐な夜の暗闇までが、まだらに折り重なり、ひとつの土地のひと冬の時間が閉じ込められていた。

「凍り付いたガラスを、小さな火であぶり、溶かしてはまた凍らせる。その繰り返しさ。失敗したらまた夜を待ち、昼を待つ。最高の光を捉えるんだ。根気と体力のいる作業だけどね。まあ、作品作りに没頭するのは昔から好きだから」

 担架に乗せられた兄の体は、病院に運ばれていった。でも、すでに手遅れだということは分かっていた。兄の体と魂は、もう凍り付いたままになってしまったのだ。僕は雪原に立てられたままのガラス板を見つめた。少し迷ったが、兄の元に持って行くことにした。いずれ溶けてしまうなら、側に置いておいてあげたほうがいいと思った。僕は表面を傷つけずに持ち上げようと、ガラスの裏側に回り込んだ。

 ガラスの裏側には、作品を作り続ける幸せそうな兄の姿が閉じ込められていた。


オモテ2月「ガラスの凍る丘で」/文・丘本さちを

cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

 *『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。

※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。

丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2016年2月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。

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