『カレンダーストーリーズ』オモテ1月「冬の朝、アルミの鍋で、湯を沸かす」【掌編小説】作:丘本さちを
アルミの鍋がキッチンにある。直径は20cmで高さは15cm。蓋はされていない。淵の両側に、輪の形をした取手が付いている。取手まで全てアルミ製。きちんと手入れが行き届いていて、外側にも内側にも煤汚れどころか曇り一つ見受けられない。三分の二程度の高さまで冷たい水が注がれていて、何かを押さえる重石(おもし)のようにコンロの上に静かに置かれている。
東向きの磨りガラスの窓から、朝の光線が差し込んでいる。部屋はまだ暖まりきっていない。薄暗がりのキッチンで、窓際のコンロだけが、先程までそこに居座っていた夜の重力から解かれている。不純物の無い、薄い密度の光が、孤独に水を抱えたアルミ鍋を照らしている。鍋は角度をつけて照らされることよってハイライト部分とシャドウ部分に分けられている。真円の鍋の淵は細く銀色に輝き、アラブの三日月刀のようにエキゾチックな表情を湛えている。向かい側には曖昧な輪郭を持つ影が張り付いている。水面はまったく揺らめいていない。静物画のように無表情である。
コンロのつまみを回す。と、カチリと内部の仕掛けが作動して、ガスの青い炎が発生する。二重の環になってゆらめく姿は、まるで輪舞を踊る小人のように見える。やがて鍋の底から蒸気の生じる響きが聞こえてくる。H2O同士の結束が綻びていく音である。まち針の頭ほどの小さな泡が、瞬きをする間に、いくつも現れてくる。鍋の底面にも、側面にもびっしりと。水面が微かに震え始める、炎のもたらす熱量に耐えかねているのだろう。泡は鍋の内側から手を離し、水面に向かって飛んでくる。大気を求めて逆さに飛び降りてくるようにも見える。ガスの炎は鍋の底を熱し続ける。ふいに一回り大きな気泡がぷくりと立ち昇る。鍋が何かを呟いたようでもある。鍋の底はぶつぶつと服のボタンほどの大きさの泡を吐き出し続ける。水面の静謐はもはや過去のものである。対流によって透明なうねりが生じている。屈折によって鍋の底が歪み、窓から差し込む太陽光が荒ぶる水面に弾かれて、ランダムに部屋のあちこちへと散っていく。はじめは遠慮がちに姿を見せていた湯気が、しだいに濃く、そして密になり、天井近くに設置された換気扇の中へと吸い込まれていく。鍋に与えられた熱量はそろそろ限界を迎えそうだ。止め処なく気泡が生じている。その大きさは硬貨ほどのサイズにまで膨れている。アルミ鍋は叫び続けている。水はついに沸騰する。門が破られたように、鍋の底一面から、一斉に気泡が立ち昇ってくる。透明なはずの液体が、一瞬白く色づいたように見える。エネルギーが物質の相をドラマティックに変える刹那。液面は悶えるように乱れ、撹拌され、凹凸を繰り返し生じさせ、飛び跳ねるように動く。鍋の内側から飛沫が吹き出し、あたりに透明な斑点を描く。アルミの鍋は夥しい熱を蓄積し、ひたすらに中の液体を沸き立たせていく。
冬の朝のキッチンに、ぐつぐつと湯の煮立つ音だけが響いている。
オモテ1月「冬の朝、アルミの鍋で、湯を沸かす」/文・丘本さちを
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。
※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。
丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2015年12月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。
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