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静寂者ジャンヌ 10  井筒俊彦 と 『嘔吐』


それにしても、
ジャンヌにとって〈沈黙の祈り〉が、
それほどまでに
自己の尊厳を守るシェルター、
抵抗の拠点となり得たのは、なぜだろう?

結局、わからない。

ただ、ジャンヌのテキストを読んでいると、
言葉が落ちること、
言語がはたらかなくなることが、
やっぱり、一番のポイントだと、つくづく思う。

これはどんな瞑想体験でも、基本的には共通することだろう。
ただし、ジャンヌにはキリスト教神秘思想特有の〈ことば〉の思想が根底にあるから、特に「言語」という切り口が大切になってくる。

言葉が落ちる。
言語のはたらきが麻痺する。
これは、どんな状態だろう?

症状としては、ジャンヌの場合もそうだけれど、失語症のようなケースが多い。
けれど、それは表面的なことだし、
そういう症状として表れているときは、まだ本当に言葉が落ちていない。

完全に言語作用が停止したら、日常の「意識」が完全になくなる。
ジャンヌだったら、「認識も記憶もない状態」と言うだろう。
何だか分からない、何も憶えていない…

意識がふつっと切れるけれど、そのこと自体も分からない。
そこから意識が戻ると、
当人にとっては、何事もなく意識が、世界が、スムーズに連続している。
そう、結局、何もなかったのだ。

(けれど、別の次元で、何ごとかが到来している!)


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よ り み ち よ り み ち よ り み


言葉が落ちる状態ー言語脱落ーについて、
日本の哲学者 井筒俊彦が、
フランスの哲学者 サルトルの『嘔吐』を引き合いに出して、
とても分かりやすく解説している。

*
井筒俊彦(1914-1993)は、規格外の人物だ。30以上の言語を操り、カナダのマギル大学やイランの王立研究所で教鞭を執り、スイスで毎年開かれた国際会議 エラノス会議の人気者でもあり… とまあ、スケールの大きな人物だ。その思想も、「東洋」的な叡智・独自の「東洋」哲学の探求という独創的なものだった。そして彼自身が、父親のもとで若い時から「内観」的な瞑想を修道した到達者でもあった。
「哲学者」というより、「哲人」と呼びたくなる。
*

その井筒によれば、わたしたちが日常で経験している世界は、あらかじめ言語によって規定されている。わたしたちがあたりまえに、そんなものとして受け止めている世界は、なまの現実、現実そのものではなく、言語によって分節され、意味化され、秩序化された世界だ。

(…)われわれの経験する存在界、われわれにとっての有意味的な存在秩序としての世界は、第一次的に知覚とともに、知覚によってつくり出されるのでありますが、その知覚の作用そのもののなかに言語が範疇的に、あるいは第一分節的に入り込んできて、はじめからその構造を規定していると考えるのであります。簡単にいいますと、われわれは現実をなまのままとらえているのではなくて、われわれがそれを意識するときには、すでにもう言語的記号単位、あるいは第一分節単位、つまり「赤い」とか「白い」とか、「花」とか「山」とかいう語の分節作用によってあらかじめ意味的に整理されている。そういう形で経験されたものがいわゆる現実の表層であります。 
『イスラーム哲学の原像』 井筒俊彦全集第五巻 488ページ(慶應義塾大学出版会)

しかし、それは「現実の表層」でしかない。
「現実の深層」を直接に見ているわけではない。
「山」とか「マロニエ」とか「湯たんぽ」とか、概念を通して見ているのであって、「存在のなまの姿」にじかに触れているわけではない。

でも、人は時として「存在」のなまの姿を垣間見てしまうことがある。それが、サルトルの『嘔吐』での体験だ。それは、言語脱落を通して起こる。

「存在」の深淵を垣間見る嘔吐的体験を描くとき、サルトルが、この「存在」啓示の直前の状態として言語脱落を語っていることは興味深い。

『意識と本質』 井筒俊彦全集第六巻 8ページ(慶應義塾大学出版会)


そう書いて、井筒は、サルトルの『嘔吐』を引用する。

ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語り出す。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語(ことば)は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生(なま)のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向かって座っていた。」 

井筒は、こう評する。

絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、
か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間
意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。
(なぜか行替えがうまくいかず、ちょっと変になりました・・・)

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コトバはここではその本源的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のもの(るび)として指示するということだ。老子的な言い方をすれば、無(すなわち「無名」)がいろいろな名前を得て有(すなわち「有名」)に転成するということである。

こういうところで老子を持ち出してくれると、分かりやすいね。

しかし前にもちょっと書いたとおり、およそ名があるところには、必ずなんらかの形での「本質」認知がなければならない。だから、あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。「忽ち一挙に帳(とばり)が裂けて」「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、怖ろしい淫らな(存在の)裸身(はだかみ)」のまま怪物のように現われてくる。それが「嘔吐」を惹き起こすのだ。

太字のところが『嘔吐』の引用だ。井筒自身による訳だ。フランス語原文も部分的に付いている(ここでは略した)。

*
ちなみに、この場合の「本質」をちょっと説明しておこう。

そもそも、本来的な「存在」そのものには分節がなく、裂け目がない。
日常意識の次元では、その無分節の「存在」に、言語によって分節が入る。
境界線が引かれ、個々のものに分けられ、それぞれに名が付く。
たとえばXという名がつくと、そのXはXとして固定され、非Xと区別され、XはXであり、非Xではないという、Xの「本質」が認知される…というのだ。
*

言語が脱落すれば、「本質」も脱落し、
個々のものを個々に分ける表層の分節線がなくなり、
意味もなく、ぐちゃぐちゃになる。

そして深層の「存在」そのものがダイレクトに現れる。

「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、怖ろしい淫らな(存在の)裸身のまま怪物のように現れてくる」ー

リアルな描写が、スリリングだ。
サルトルがすごいのか、それを読み取った井筒がすごいのか。
両方でしょう。

しかし、実はここからが本題だ。

『嘔吐』の主人公が、こうした言語脱落を、不気味な忌まわしいものとしてしか体験できないのは、実は、彼が表層意識の次元に留まり、深層意識の次元に到達する準備ができていないからだと、井筒は書く。

だが、以上はあくまでも表層意識を主にして、表層意識の立場からの発言であって、深層意識に身を据えた人の見方ではない。
サルトルあるいは『嘔吐』の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を視るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。

そして井筒は、「実は東洋の哲学的伝統では、そのような次元での「存在」こそ神あるいは神以前のもの」なのだと指摘し、例えば荘子の「渾沌」、華厳の「一真法界」、イスラームの「絶対一者」を例に挙げている。

ジャンヌだったら、この「存在」次元は、〈神そのもの〉の次元に相当するだろう。
あるいは、神の〈ことば〉の次元だろう。
無分節の次元だ。

さっきもちょっと書いたように、ジャンヌには特有の〈ことば〉の思想がある。

人間の分節的な言語が消滅したあかつきに、たましいは、無分節な神の〈ことば〉にダイレクトに触れられるのだ。

それは、はたらきであり、生のエネルギーと言ってもいいだろう。
(実践者ジャンヌは、哲学的な存在論には関心がないので、「存在」という言葉には、あまりこだわらなくていいだろう)

たとえば、こんなふうにジャンヌは手紙に書いている。

分節された(articulé)、区別された(distinct)、感知できる(sensible)言葉によってではなく。造られざる(incréé)、識別できない(non distinguible)言葉によって。それこそが彼(神)のコトバなのですから。


井筒の「分節」は彼特有の用語なので、一般の「分節」という用語とは厳密には分けるべきだろう。このジャンヌの「分節された articulé」は、一義的には「滑舌よく、一つ一つの言葉がはっきり分かるように発音された」という意味だ。
しかし、井筒的な「分節」を、ジャンヌのコンテキストにおいて読み取ることは、ジャンヌの実践理解に役立つ。

神の〈ことば〉は人間の言葉のように分節されない、
ということに、ジャンヌはこだわる。
ポイントなのだ。
彼女の言わんとするのは、あきらかに井筒的な意味での「分節ー無分節」だ。

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  ぽんたゔぇん




『嘔吐』に戻ろう。
主人公は、まだ言語脱落の「とば口」にしか立っていないのだ。

こういう一瞬の言語脱落の体験は、多くの人たちにとって身に覚えがあるだろう。
しかし、そこで止まったら、(ジャンヌで言えば)〈内なる道〉にまだ入っていない。

こういう、いわばたまたまの体験と〈道〉の体験は違うものだと、よく現代の静寂者たちが言う。

師にガイドされながら、長い年月をかけて、〈信〉の細道を歩まなければならない。
そして完全な言語脱落に到達しなければならない。

「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、怖ろしい淫らな(存在の)裸身」ー

この『嘔吐』の表現のおもしろいところは、セクシャルなものに対する無意識の不安のようなものが、強く出ているところだろう。

性的なものに誘惑されながらも、やっぱり怖い。

めまい、吐き気がする。

そういう怖気付いたような感じ。

まあ、セクシャルかどうかは置いておいて、
この無分節へと開いた扉の前で
狼狽える主人公に対して、
ジャンヌだったら、こう言うだろう。

「神を信頼して、はやく飛び込みなさい!」

〈信〉のうちに、無分節の〈享楽〉に飛び込み、溺れる。

いっさいの区別の消えた、
行為も言説もない、
すっからかん。


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しかし・・・
えらい長々と、寄り道してしまった。

ともあれ「言語の意味作用、すなわち『存在』分節作用が、われわれの日常的意識の構造そのものにいかに深く関わっているか」について、少し触れることができたかもしれない。

ジャンヌにとって〈沈黙の祈り〉が、
たましいのシェルターとなりえた、
その根本の鍵も、そこにある。

うだうだ書いてしまったね。
反省。
またこんど、もっとすっきりと・・・

興に乗ったついでに、井筒が引用した『嘔吐』の該当部分について、
鈴木道彦の新訳(2010年 人文書院)を引用しておこう。

つまり、私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げ、たった独りで、まったく人の手の加わっていないこの黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。
存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地(きじ)そのもので、この根は存在のなかで捏ねられ形成されたのだった。と言うよりもむしろ、根や、公園の鉄柵や、ベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消えてしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残ったーむき出しの塊、恐るべき、また猥雑な裸形の塊である。


ちなみに、井筒は『嘔吐』を、おそらく1947年ごろ、白井浩司訳の青磁社版で読んだのだろうと、若松英輔氏は推測している。(若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』慶應義塾大学出版会)二日二晩かけて一気に読んだ、という。そして井筒は、自分のうちに形成されつつあった「意味分節理論」が、東西文化の別を超えて普遍性を持つものと確信したという。

『意識と本質  精神的東洋を索めて』(岩波文庫 or 井筒全集第六巻)で、井筒はこの『嘔吐』を話の枕にして、意識と本質、分節・無分節などの主要テーマについて、縦横に論じていく。

特に「分節Ⅰー無分節ー分節Ⅱ」理論は、ジャンヌ・ギュイヨン理解のうえで重要なので、またそのうち引用しよう。

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