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『映画的な映画 ドライブ・マイ・カー』

(ネタバレなしです)

 大きな賞を獲ったって、私ぐらいのレベルになるとそんなことで作品の評価には影響はされんよ!
 なんて、当たり前のようにアジア映画が主要映画賞を獲るようになってしまうとついついそんな意気込みで見てしまう。だが、エンドロールに暗転した瞬間、止めどもない涙が溢れて仕方がなかった。
 素晴らしい作品、傑作だ!

 長尺ものの日本映画に多いのは、連続ドラマタイプで、決して面白くないわけではないがスクリーンで観るべきものか?って作品。それこそサブスク用にでもすれば良いってものがある。要するに、「映画的」でない。
 この作品、大雑把な表現をすると会話劇なのである。シチュエーションものといっても良さそうだ。

 長尺の会話劇
!?

 こう書くと、「映画的」からかけ離れたものしか想像できないかもしれないが、恐ろしく映画的なのだ!
 非常に大きな仕掛けのある脚本。遠近感のある画面。心血が注がれた役者達の演技。これはスクリーンで上映される為だけに揃えられた要素だ。
冒頭でも書いたように、世界を席巻するアジア映画のトップランナーを並走し得る完成度と言っていいと思う。

 カンヌで授賞したのは脚本賞。それはもう至極真っ当な受賞だ。決して受賞を知った追認とかではなく、予測のつかないプロットに驚かされ、ため息をついてしまった。
 村上春樹原作らしく、饒舌な会話が話を紡いでいく。ただ、原作で語られる言葉は非常に有効に使われる。これ、長尺の理由だと思う。村上春樹の作中での会話は流れるようにリズミカルだ。彼の一つの文体となってる。しかし、そのリズムに則ることは、敢えて映画にすることへの挑戦がなくなる。より深く原作を解釈し、そして自分自身の作家性を発揮することが、原作ものの宿命だし、原作への最高の敬意だと思う(その点「バーニング」も見事に敬意が払われた作品だった)。原作を希釈し、そしてここぞとばかりに言葉を落とす。濱口監督の確信的演出には脱帽。
 希釈に関して少し補足しよう。村上春樹作品に登場する人物はリアリティよりもどこかファンタジックな存在が多い。普通の女性や少年でも、彼らが抱える心の問題は読者の抱え得るそれと少しかけ離れた感がある。この映画に出てくる男女も一見は特異な背景を持っているが、村上春樹作品を読んでいる時のような作品と鑑賞者の断絶をあまり感じない。
 丁寧に人物を描くことで、しかもその描き方は決して映画的に饒舌ではなく、最大限の間を使うことによって鑑賞者側の凝視を誘う、極めて理に適った長尺なのである。
 一つ例を挙げるなら、演劇畑からの夫婦関係なんて想像の上では如何様にもファンタジックな男女関係を作ることができよう。村上作品なら、こんな女性もいよう、あんな男性もいよう、とイメージ化されることが多く、ファンタジーの提示に過ぎないが、この映画では、浮気性の妻と過ごした時間への男の葛藤、に見事に落とし込んでる。「浮気性の妻と男の葛藤」、こう表現できるところにリアリティがある。決してミスリードではなく、観る側への配慮にも近い映画的な脚色だと思う。

 小説に書かれる言葉、そこから脚本に焼き直される言葉、そして、その脚本を映画にしていく過程で、一番重きを置かれるのは俳優達がいかにしてその言葉を発するか、と思いがちだ。舞台演劇なら尚更なこと。無論、これは私自身が実際に映画界や演劇界に首を突っ込んだ経験がない意識の希薄さからかもしれないのだが、一般的には原作も脚本も文字だし、その文字をどう演者たちに媒介させるかに興味が集まると思う。ましてや饒舌な村上春樹の言葉をどう聞かせるか、やはり期待してしまう。
 この映画の凄さは、そういう期待や想いを破壊してくれるということ。やはり言葉は記号に過ぎず、言葉の前に先ず人間の意思が存在するということ。物語は人間の感情の移り変わりや複数の人間の感情を描くもの、そこに言葉が必ずしも必要な要件ではないという事実を見せつけられる。
 この映画、恐らく大概の人が見て面白く感じると思う。マスに受け容れられる作りとかそんなものではなく、伝わってしまうからだ。登場人物達の性格や生き方に是々非々はあるだろう、その受け止め方は様々だとしても、彼ら彼女らの心情が伝わる時、痛み辛さ、そして葛藤が共有され観客の我々の胸もざわついて仕方がない。物語が終わる時、そのざわめきから解放され、ホッとひと息つけるのである。

#ドライブマイカー #村上春樹 #濱口竜介 #映画感想文 #note映画部 #filmarks  

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