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[ちょっとしたエッセイ]深夜の波に身をまかせ、仮想空間を傍観すると。

 なんとも曖昧なタイトルになってしまった。僕は、日付をまたぐ0〜2時の時間帯は、いつも心が乏しくなり、ネットの世界に身を委ねてしまう。「委ねて」というと、ひたすらネットサーフィンをしながら時の流れを忘れさせるような体験になりがちだが、どちらかというと「浸る」とか「覗く」に近いかもしれない。
 みなさんは、SNSのようなコミュニティサイトにどれくらい登録されているでしょうか。僕自身は、このnoteのほかには、TwitterとFacebook程度。とはいえ、アクティブ率で言えば、noteとTwitterの頻度は高いけれど、Facebookは開店休業状態。無論その差ははっきりしていて、なぜそうなのかもだいたい見当はついているわけで、じゃあ不要そうなFacebookをえいやーと消してしまってもよいのだけれど、そうもできない理由が実はあったりする。

 たぶん自分の人生で一番最初に登録したSNSといえば、mixiだったと思う。そのあと、FacebookとTwitterが浸透した。多くの人がmixiからFacebookへ民族移動をし、一気に廃れたmixi。僕もその例に洩れず、移動した。でもmixiの時に比べると目新しさはなく投稿するモチベーションはほぼなかった。代わりにTwitterをはじめたが、これも継続性はなく、このnoteを開始した昨年くらいから何年もの時を経て、Twitterは再開した。その際にはフォロワーを整理し、リスタートを切ったと言った方がよいかもしれない。そんなリフレッシュができて、違った自分を作り出すという意味では、Twitterはとてもいいところだなと思う。

 一方、Facebookはもう10年くらい更新していない。それでもアカウントを削除しないのは、現実の友人であったり、友人らしき人だったり、はたまた仕事上の関係で交換した人たちがいるからであろう。人の繋がりを簡単に引き裂く勇気も気概もない自分は、ただただ公開されいく知り合いたちの日常をぼーっと見ている。
 情報の共有欲のようなものも含まれているだろう。Twitterのような希薄で幾分無関係な情報は、なんの感情なしで読み捨てられる。でも、Facebookは、ある程度の現実の関係性と距離を保つ特性があるので、タイムラインにならぶ近況報告やご自慢なんかを情報として得ることができる。ただし、それはアメにもムチにもなりうるものだなと思わされる。葉脈のように広がる“友人関係”というものは、決して好意だけでは成り立たない。嫌な人間もいる、見たくない人間もいるし、見られたくない人間もいる。けれども、葉脈は途切れることはないし、それを断絶することもできない。だから、おとなしくそれらを受け入れ、静観することが、この場所における自分の存在の確保なんだなと思うわけだ。

 しかし、人というものは勝手なもので、自分が自分の中心であることによって、自分を守っているのだなと、そう考える。そんなバカで稚拙なコアな心は、自分と関わりのある人、あった人、傍目で見ていた人、学生時代の先輩後輩など……を傍観しながら、時折自分の存在を織り交ぜながら勝手な想像を促してくる。
 先日、そういえば高校時代に少し好意を持っていたな……みたいな女の子(今は女性という方がいいのか)を同級生の友人伝いにアカウントを見つけた。当時は、あまり会話したことはなかったが、見かける度に目で追っていたなという少々陰キャのような痛々しさを思い出した。パソコンの画面をスクロールしてみると、現在は看護師の仕事をしていて、結婚もしていて、子どももいるようだ。プロフィール写真の現在の彼女の顔は、あの頃とそう変わっていなくて、勝手にも少しホッとした。でも、彼女のページから得る現在の情報と、自分の中にある当時の情報からの未来(現在)の彼女は、やはりリンクはしない。あの頃彼女は絵描きを目指していたと思う。それがどう看護師への道に切り替わったのか、あの頃流行っていた歌をあまり興味なさそうな顔で見ていた君が、なぜ今更投稿に出てくるのだろう。
 そういった、クエスチョンマークから巡る物語が、気がついたら自分の頭に浮かび上がってくる。あの頃、ああしておけば、ああなったかな〜とか、もっとアプローチしておくべきだったかなどなど、向こう見ずの水掛け論は、時を遡って少し気持ちが活性化させる。こういうのが自分の書くもののネタになるし、記憶の溝を深める時にもなる。
 ただし、こういうことは10件に1件くらいの案件で、大概はため息であったり、嫌な思い出なんかも掘り起こしてしまうのは事実だ。

 先にも書いたが、葉脈のように広がる“友人関係”は、決して好意だけでは成り立たない。嫌な人間、投稿を見たくない人間、逆に見られたくない人間の方が、圧倒的に多い。でもそれは、現実もそう変わらないのかなと思う。しかし、性格がひねくれている僕は、このネットの世界では、なんの邪魔もなくゆっくり傍観し、それらを多少なりとも受け入れている。嫌な思いをしようが、吐き気がしようが、それはショーウィンドウを見るようなもので、僕の中のソーシャルディスタンスがそこに確立されているからだ。
 noteで自分の思いや思いつきを書き始めてから、特にこのFacebookへの渇望は強くなった。嫌悪感はより一層強くなったが、得るものは大きい。人の人生を覗き、想像し、せせら笑いしながら、自分の人生の傷口や腫れ物を刺激する。それは、ある種の覚せい剤みたいなもので、怖くて目を覆ってしまうホラー映画を指の間からチラッと見るような、公園の片隅に放置されたエロ本をまわりに誰もいないことを確認した上で覗き見る勇気のような、そういった発奮なのだと思う。

 僕にはそういう使い方がこのツールには合っている。だから、結論としてFacebookはやめられない。
 ほらまた深い夜がやってくる。これは、つかの間の旅に出る合図だ。広い世界をふわふわと浮遊しながら眺めるネットの世界。家々に灯る明かりのように、点在する人々の記憶(投稿)。これらを僕は俯瞰して見ながら、あらゆる感情を抱きながら眠りの世界へ戻ってゆく。

 友人各位、これからも投稿、よろしくお願いします。

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