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[ちょっとしたエッセイ] 書くということ

 人のカラダというものは不思議で、何気なくいつもしていることが微妙にできなくてストレスになることがある。その際たる場面が、「字を書く」時だ。
 自分の名前を書く。思うように書けない時もあれば、なんだかピシッと書ける時もある。だから、キチンと字を書きたい時は、深呼吸して、お気に入りのペンで、書く準備をするのが大事だと思う。鉛筆なら削りたてより少し芯が丸くなっている状態にするし、ボールペンなら一度走り書きをしてインクの馴染み具合を確認する。
 そして、やはり最も神経を集中して書きたい時は、万年筆を使うようにしている。
 自分が幼い頃、父親の上着のポケットには1本の万年筆がいつも挿してあった。設計士をしていた父は、図面の端にサインを書くたびに、その万年筆を使用した。僕はそれを見て、不思議に思ったものだ。一度触らせてもらったことがある。ずっしり重くて、ポケットに入っていたからじんわり温かく、書かせてもらうと、すーっと重みでペン先が走った。鉛筆にも、シャーペンにも、ボールペンにもない滑らかさに驚いた。でも子ども心にこれは“大人の文具”だと思った。
 時は移り、今ようやくその頃の父の歳くらいになった。こうやって自分も万年筆を使うようになったことに少しの喜びと、なんとなくその父とは違うのかなという違和感が混在してる。

 ただ、そんな感情は置いておいて、万年筆を使うと、とても背筋が伸びるような感覚に陥る。「さ、字を書くぞ」という気持ちになるわけだ。僕が使う万年筆は、とても勝手がよく、安価で軽い。2本の万年筆がお気に入りで、時と場合によって使い分ける。

 1本は、ペリカン社のペリカーノジュニア。これは小学生向けに作られた少し太めで、しっかりとした書き心地。見た目もカラフル。インクも少し大きな文具店で手に入るのでいろいろなカラーが手に入る。値段も1600円程度で、気も楽。字だけでなくちょっとした絵なんかも描く時に使用する。

 もう1本は、ラミー社のサファリ(タイトル画像)。こちらがメインで使用している。細めの線はなめらかで、インクが流れるような書き心地。値段は、先ほどのペリカーノより少し高くなるが4000円程度。こちらもインクと合わせて比較的手に入りやすいもの。手頃な値段はガサツな自分にとって非常にありがたい。こっちは手紙やサインを書く時に使用する。

 万年筆をしばらく使っていないと、インクがつまることがある。そういう時は、ペン先を水の入った瓶に浸けるのだが、その時にペン先からにじみ出るインクは、実に幻想的な広がりを見せる。それを見るのが案外楽しい。またペン先を水に垂らすとインクが水面に落ち、きれいな波紋を広げる。こういう手入れもあるから面倒な時はあるのだが、今のような使い捨てる文化がある時代、それもそれで物の存在の摂理を学ぶ機会でもある。

 いつの時代か、万年筆は高級品の部類であったが(現在も高いものは高い)、今はそんな時代ではないから、僕はみんなに使って欲しいなと思う。きれいな字であろうと、そうでなかろうと、自分の字はかけがえのない唯一無二の存在だ。その体験をラグジュアリーに、心地よくできれば、それは楽しい経験になるはずだと思う。
 昔の著名な人の多くは書を嗜んでいた。もちろん自分の目で見ると、どれもが達筆だとは思わない。でも、思想の表現は言葉であり字なのである。

 子どもの頃は、パソコンなどなかったし(ワープロはあったが)、すべてが手書きの「昭和」だった。そしていつしかパソコン、スマートフォンにツールが変化し、手で書くことが少なくなった。が、それはそれでい。パソコンで手紙を書いて、紙に出力し、最後にサインとして万年筆で自分の名前を書く。そういう補助的な役割で十分だと思っている。
 こうやってnoteで自分の考えや思想なんかを文字にして表現できる場があることは非常にかんたんでおもしろい反面、デジタルがその表現の唯一の方法になってはならない。と思う。
 たまに、たまーに、自分の字を書いてみる。その時のコンディションがそこに表れ、うまくかければうれしく、気に入らないといやな気持ちになる。でも、それを含めて自分なのだ。そして、自由自在に自分の気持ちを表現できるひとつのツールだ。原始的だが、僕らはそれを忘れがちなんじゃないかな。

駄文におつきあいいただき、ありがとうございます。

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