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[ちょっとした物語]向こうから鐘の音が聞こえる

 埃っぽい書類の束を1枚1枚眺めていた。すると水色の封筒を見つけた。初夏の心地の良い午後だった。封筒から便箋を取り出すと、記憶はフラッシュバックする。

「こんなきれいな海見たの、はじめてだよ。ね、なんていうか、キラキラしてる」

 そう言ったのは本当にきれいな海だったからだ。初めて訪れた瀬戸内の海は、凪いでいて、光が無数に反射していた。そんな海を見たのは、生まれて初めてだった。

「こんな海、普通ですよ」
 少し語尾のイントネーションが僕のそれとは違う。照れるわけでもなく、君にとってはごく当たり前の光景をほめられたわけだから、少し複雑な心境のようだった。

「あの、どちらから来たんですか?」
 そう声をかけてきたのは、駅で券売機の上にあった路線図を見ていた時だった。見ず知らずの土地で、声をかけることはあっても、かけられるのは滅多にない。驚きながら振り返ると、セーラー服を着た少女が立っていた。
「東京です」
 そう言葉をかけると、その子は少し照れながら言った。
「東京って、あの東京ですか」
「え、あ、うん」
「私、大学は東京に行きたんです」
「そうなんだ」
 僕はどう言葉を返してあげたらいいのかわからなかった。でも、そのまっすぐな目を見ると、無責任なことは言わない方がいいように思えた。
 日差しの強い日だった。僕は近くの自販機でコーラを2本買い、1本を彼女に渡した。別に急ぐ旅ではない。そしてなにより、彼女に興味が湧いていた。

「どうして東京に?」
 その問いに、彼女は少し困ったような顔をしていた。言葉にお互い詰まりながら歩いていると、潮の匂いがふわっと香った。
「あ、海」
「はい、海です」
 言葉は不思議だ。ただの情景を言葉に描写しただけで、会話がつながっていく。

「こんなきれいな海見たの、はじめてだよ。ね、なんていうか、キラキラしてる」
 初めて訪れた瀬戸内の海は、凪いでいて、光が無数に反射していた。

「こんな海、普通ですよ」
「そうかね。東京湾じゃこうはいかない」
 風の流れに、海が音を奏でている。

「あの、彼女っていますか?」
 唐突な質問に、少し僕は怯んだ。
「え、あ、うん。います」
「そうなんですね。いや、私も彼氏がいるんですけど、東京の大学に行きたいって言ったら、ずいぶんと馬鹿にされて」
 そう言い出すと、彼女は言葉を続けた。たぶんこの子は、今大きな転換点にいる。それを共感してあげられる人が近くにいないのだろう。

「ここにいたら一生のうちに何回か行けるかわからない場所だから、行くしかないんです」
 端々から見える、彼女の向こう見ずの決意は、どこか清々しさがあった。

「どう思います?」
 海の方を向いた彼女の問いは、光源のように、まぶしいくらいの問いだった。

 僕はなんて答えたのだろう。今ではなんとも思い出せない。どうせ無難な答えを言ったのだろう。彼女が傷つかない程度の。

 埃の匂いがする封筒から便箋を取り出す。

…暑中見舞い申し上げます…
 文字の下に広がる修正液の連鎖が、彼女の迷いを映し出している。きっと、この手紙を書くのにとても時間をかけたのだろう。
 東京への憧れと、東京にいる人間がどんな生活をしているのか、そんな問いが敷き詰められている。僕はこの手紙に返事を書いた記憶がない。僕なんかが、彼女のことを救えるなんて、これっぽっちもなかった。だから、この手紙が僕と彼女の接点の最終地点だと思う。手紙を読み進めると、最後にこう書いてあった。

…なんだか訳のわからない手紙でゴメンナサイ。私でよければ、話し相手になります。手紙というのは、とても心があったかくなりますから。それでは、暑いけど体に気をつけてくださいね…

 僕はきっと思い違いをしていたんだ。地方に住む小さな女の子を、ただ勝手な想像で憐んでいただけなのかもしれない。その不自由さの中にある若さに、同情していただのだろう。自分のことを棚に上げて。でも、彼女はそんな僕と対等な目線で語りかけていたのだ。

 あれから20数年が経っている。彼女の歩んだ未来は、どんなものだったのだろうか。あの時以上に枯れた僕に、あの時の海のきらめきが、あの時以上にまぶしく、記憶に照らしつける。

 僕は、彼女を想った。もし手紙が届くならと、筆を取る。もし届くならと。


*こちらのショートショートは、以前書いた『[ちょっとした物語]やがて鐘はなる』に対となる物語です。もしよろしければ、そちらもお読みください。またご感想などもいただけるとうれしいです。


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