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[ちょっとしたエッセイ]うれしさは伝染しやすい

 毎朝、満員電車に乗りながら本を読むのを日課としている。ただ、扉の脇を陣取った時は、車窓の外を見ながらボーッとするのも悪くない。西東京の彼方に住んでいると、今日みたいなよく晴れた日には、富士山が見える。末広がりに延びる山肌には、白い雪化粧。同じ景色を見てる人がいるかもしれないと、辺りを見渡してもほぼほぼみんな目線は下にあり、スマートフォンに夢中になっている。そして漏れなくイヤホンもしている。キレイだねーなんて声かける(するはずもないが)ことすらままならない。
 先日、ひとりで近所のファミレスで仕事の残りをしていた。すると、夕食時なこともあって、隣の席にお母さんと子どもら3人の家族が座った。僕はひとりで温くなったコーヒーを飲みながらカタカタと仕事をしている。周りは夕食時のファミレスらしくガヤガヤと賑わっている。しかし、横のテーブルからは声ひとつ聞こえなかった。コーヒーのおかわりをもらいに行く際に、チラッと横のテーブルを見た。ほほう。子どもたちは耳にイヤホンをして、ひとりはゲームを、ひとりはインスタを、ひとりはYoutubeと、下を向いてスマートフォンに夢中になっている。なんならみんな少しニヤけるくらいに。反抗期を絵に描いたような画一的な行動だ。
 あれは僕が小学生の頃だっただろうか。ポータブルのカセットテーププレイヤーが若者の必須アイテムだった時代。ひとりであっても、友達といようとも、家族といようが、耳にイヤホンをして、お気に入りのミックステープを聴いたものだ。僕もご多分に漏れず、週末家族と外食に出かけた際に、耳にイヤホンをしていたら、父親に没収され、1カ月使用禁止にされた。今考えれば、当然だけれども、あの当時は、家族で馴れ合うことがどこかかっこわるく感じる年頃だったんだと思う。親や兄弟と一緒に歩くことすら恥ずかしい。そんな時期が誰にでもある。
 あの、思い出せば謝りたくなる、モラトリアムの清算をこんなファミレスでしながら、コーヒーのおかわりを入れて戻る。そして横の家族をチラッとみた。さぞかしお母さんは、子どもたちの行動に辟易としているんだろう。そう思いながら、母親の方に目をやると、目をキラキラさせながらスマートフォンにかぶりついていた。そして、たまに横にいる娘に、スマホを見せながら、「石川くんかっこいい!」そんな話をしている。娘は「はいはい」と言いながら、また自分のスマホに目をやる。この日は、バレーボールの生中継がある日だった。
 実は、時代は自分が思っている以上に移ろっている。さっきまで、若者あるあるみたいな思い出と、それに恥ずかしがっていた自分が情けない。もうそんな単純な問題ではない。子どもであろうとも、大人であろうとも、家族といようとも関係ない。ひとり1台、何でもできる機械を持つ時代に、かっこつけるだとか、一緒にいて恥ずかしいだとか、そういう次元ではなかった。もう、誰もが自分のやりたいことを、自分のやりたい時にやるのが、普通なのかもしれない。
 コーヒーを飲みすぎて必要以上にお腹が膨れてきた頃、横の家族は、結局特に会話らしいこともせず、それぞれが食べたいものを食べ、静かに帰っていった。

 車窓から見える朝の富士山は、特別珍しいわけでもない日常のひとコマ。誰もが当然のように見もせず、通り過ぎてゆく。僕も同じで、本を読み、耳に音楽が流れて込んでいれば、外の風景なんて見もしない。例えば、肩をトントンと叩かれて、窓の外の富士山を指さす人がいたのなら、僕は本を読むのをやめ、耳からイヤフォンを取り、富士山を見るだろう。すべてはきっかけなんだと思う。それを無視するほどの無関心を僕は兼ね備えていない。
 いくら耳に栓をしていても、目を釘に刺されても、肩を叩いてくれる人がいなければ、その富士山には気づかないかもしれないし、料理が来ても気づかないで冷めてしまうかもしれない。関わられると、鬱陶しくなり、無関心にされると、さびしくなる。改めて人間の身勝手さに、肩をすくめる思いだが、無関心に見える世界には、どこかで誰もに鬱陶しいくらいの関わりが存在しているからこそ、無関心に見える世界がそこにあるのかもしれない。サードプレイスなんて言葉が最近聞かれるが、そういうことなんだろう。ひとりきりで生きているならば、それすら必要ないのだから。
 なんて、ボーッと車窓から富士山を見ていたら、小さな子どもが、うれしそうに富士山だとお母さんに伝えている。かなしさというものは案外伝わりづらいものなのだが、うれしさというものは結構簡単に伝染してくれる。朝の満員電車に、一縷のうれしさが富士山とともに流れた。

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