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【小説】サプライズ・正義の味方

こちらは八幡謙介が2014年に発表した小説です。



サプライズ


 刈谷隆文は路地の先に自宅が見えたところで、もう一度ショルダーバッグの中に手を入れ、プレゼントが入っているのを確認した。「よし」と小声で呟いて、再び足を進める。見慣れた小さな門を開けると、右手にある花壇のコスモスが、夜露に濡れていくつかしおれていた。
 玄関の前に立つと、一気に心臓が高鳴ってきた。
 今日は妻康子との十五年目の結婚記念日だった。ちょうど秋の行楽シーズンということもあり、まだ子供がいない頃は温泉に連れていったりしていたが、三年目に待望の第一子が生まれると、それ以降旅行は子供の誕生日や春休みに取られてしまった。それでも毎年欠かさずプレゼントを贈ってきた。隆文はそれを密かに誇っていた。自分は決してモテる方でもないし、女心なんてものは分かった試しがない。しかし、誠実さでは誰にも負けない自信があった。浮気はもちろん一度もしたことがなかったし、内緒の買い物すらせず、自分の小遣いもできるだけ妻や子供のために遣ってきた。同僚たちの中には浮気をしている者もあったし、妻に秘密を持っている者がほとんどだった。隆文はそれを批判したり諫めたりはしなかったが、内心、彼等を軽蔑していた。
 真の幸福とは、弛(たゆ)まぬ努力によって勝ち取るものだ。隆文はそう信じていた。仕事が終わったら真っ直ぐ帰る、食事は残さず美味しく食べ、味の感想を必ず言う。土日は家族サービス、嫁や娘の誕生日は一緒にお祝い、自分の誕生日は質素でも我慢する……。
 とはいえ、夫婦生活は順風満帆とは言えなかった。結婚十年目から徐々に夫婦の仲は冷めはじめ、夜の営みも激減した。隆文はこれが倦怠期というやつかと、深い感慨を覚えた。しかし、完全にセックスレスとなった後も、結婚記念日のお祝いだけは律儀に守り通した。そうすることで結婚生活をなんとか維持でき、いずれまた元通り仲の良い夫婦に戻るきっかけも見つかるだろうと、隆文は本気で信じていた。
 昨年、十四回目の結婚記念日はどうしても予算が出せずに、子供を連れて近くのファミレスで簡素に済ませた。すると、その後しばらく妻の機嫌がよく、会話も珍しくはずんだ。内心悪いなと思っていた隆文は、二人っきりで久しぶりに見た妻の明るい笑顔に、拍子抜けする思いだった。しかし、隆文がその意味を理解する前に、日常が彼女の笑顔をすっとさらっていき、再びいつもの倦怠が二人をどんよりと包んだ。
 そうしてまた一年が経ち、十五回目の結婚記念日がやってきた。隆文は今年を勝負の年だと位置付けた。年明け早々から密かに貯金を始めた。電子書籍で『女性の心理』などといった本を片っ端からDLし、研究に努めた。また、会社で比較的よく話す女性社員に、女性が喜ぶ結婚記念日の祝い方を訊ねたりもした。
「そりゃあ刈谷さん、サプライズですよ、サプライズ! 何も期待していないところにいきなりプレゼントとか貰ったらテンションマックスですよ! 洋服とかは好みやサイズがあるから、アクセサリーとかはどうですか? かさばらないし、よかったらアラフォーの女性が好みそうなブランドお教えしますよ」
 そういってにっこりと笑った顔に、隆文は珍しくときめきを感じた。ブランドの名前はスマホに控え、彼女とはそれっきりこの話をしないようにした。
 そして今日、妻には残業と言い、仕事を定時に済ませると、銀座のジュエリーショップに向かった。女性向けのブランドだったが、スーツ姿であることと、年齢もあってか、店員からは特に不審の目は向けられなかった。隆文はネットで下調べしておいたネックレスを店員に見せてもらい、満足すると、
「結婚記念日なんですよ」
 と照れ隠しに告げた。まだ二十代であろう女性店員のうっとりとした笑顔に、恋人時代の妻を思い出し、隆文も自然と口角が上がった。店を出ると妻に仕事が終わった旨のメールを送り、帰路についた。

(試し読み終了)


正義の味方


 新山聡は道場を出ると、いつものように組み手の反省をしながら駅までの道を歩いていた。シャワーでしっかり汗を流してきたはずだが、盛夏の夜のむんとした熱気を受け、せり出したTシャツの胸にはまたじんわりと汗が滲んでいた。
 聡が通っているのは、立原会館という、いわゆる〝捌き〟空手の名門流派である。〝捌き〟とは、一代で立原会館を創りあげた天才・立原重則の提唱する攻防一体の組み手技法である。初期の立原会館は、公に〈ケンカ空手〉を標榜し、荒くれ者集団の様相を呈していたが、重則が若くして亡くなると、二代目の重行の改革により、地域に即したより親しみやすい道場へと変身を遂げた。古株の師範の何人かは反発し、会館を去った。しかし多くは二代目の人間性を慕い、また時代の変化を敏感に感じつつ、何とか新しいスタイルに適応しようと努力した。
 今日、金曜夕方は、先代の側近で〝捌きの天才〟と讃えられた三宮城(さんのみや じょう)最高師範の指導があり、聡はこの時間は欠かさず出席していた。三宮も聡の技や、熱心な稽古態度を高く買っており、聡も三宮を心から尊敬していた。二人が特別な師弟関係にあることは、本部道場で稽古する者なら誰でも知っていた。二十歳を過ぎてから、プライベートで何度か三宮から酒の誘いがあり、聡は伝説の〝捌きの天才〟から直接聞かされる武勇伝に、子供のように瞳を輝かせた。酒が進むと三宮は決まり文句のように『今のやつらは可哀想だよ、ちょっと喧嘩でもしようもんなら警察だの裁判だのって。昔は組み手に迫力をつけるためにわざわざ盛り場に行って喧嘩をしたもんだ。そうやって度胸をつけてな、道場で先輩の胸を借りたもんだよ』
 聡は駅へと足を進めながら、ふと時計を見て、軽く首を傾げた。いつもより三十分ほど時間が早い。後半、少しトラブルがあり早く終わったのと、今日は三宮最高師範が体調が悪く、稽古終了後に話が出来なかったことで時間ができてしまったらしい。なんとなく、このまままっすぐ帰るには惜しい気がした。
 道場は駅の東側、繁華街から少し離れたところにある、こちらをうろうろしていると先輩に見つかって悪所に連れて行かれる可能性があるので、比較的健全な飲み屋街のあるホームの西側へと渡ることにした。ならば、ホームへと向かうよりも、逆方向にあるトンネルからの方が近い。聡は回れ右をすると、トンネルに向かいながらまたぼんやりと思考を巡らせた。
 聡は子供の頃から正義感が強く、よく喧嘩やいじめに介入した。その際、治まってくれることもあれば、激化したり、矛先が聡に向くこともあった。小学校高学年にして、聡は正義を為すためには力が必要であると確信した。中学に入ってからもその性格は変わらなかったが、喧嘩やいじめの苛烈さには辟易し、持てあました。
 ある日の放課後、クラスの男子が言い争いをし、一触即発の状態となっていたところ、有名な三年の先輩がふらりと教室の前を通りがかり、足を止めた。
「お前ら、何してんの?」
 先輩は全員に睨みを効かせながら、静かに訊ねた。誰かが「いえ、何もないです」と応えると、「あっそ」と言ってすぐに去って行った。
 後で聞くところによると、その先輩は有名なフルコンタクト空手の黒帯で、昔風に言うところの〝番長〟とのことだった。先輩のたった二言で、何事もなかったかのように場が治まった。聡は、裡に秘められた力が、それを解放することなく大勢を制する様をまじまじと目にし、静かな感動を覚えた。数日後、危険だからと反対する母をなんとか説得して、立原会館総本部道場の少年部に入会した。そこから、気がつけば七年の月日が流れていた。
 足下に見えた潰れた空き缶を足の側面で歩道の端に蹴り、聡はトンネルへと入った。
 と、――
 眼前の光景に、一瞬映画を観ているのかと勘違いしてしまった。だが次の瞬間、気がついたら全力で対象に向かって走っていた。
 スモークの貼られたワンボックスカーのドアが大きく開き、二人の男が女性を引きずり込もうとしている。
「おい!」
 声を挙げると、男たちが気づき、怒声を返してくる。聡はバックパックを素早く脱ぎ、それを片方の男目がけて投げつけた。そして一気に距離を詰めると、相手の体の中心に向かって前蹴りを放つ。大技だったが、相手に格闘技経験がないのか、蹴りは上手く腹部を捉え、男はくぐもった声を挙げて地面にうずくまった。
(もう一人!)
 聡はガードを上げたまま大きくバックステップをとり、半身を切って敵を確認した。背は高いが姿勢や雰囲気で格闘技経験者ではないと直感した。
(凶器は持っていない。よし!)
「てんめぇ」
 男が鬼のような形相で聡に殴りかかってきたが、そのパンチは道場で〝素人パンチ〟と揶揄されるフォームそのものだった。聡は左前腕でそれを軽く捌くと、相手の右サイドにポジションを取り、ミドルを一つ入れて、立原空手の基本技である〝巻き込み〟で相手を転がした。
(女の子は?)
 ふと我に帰って辺りを見回すと、歩道の端にうずくまって泣いている。聡はバックパックを手にすると、彼女を無理矢理立たせた。
「駅まで送ります。歩けますか?」
 涙を拭いながら、女性は無言で何度か頷いた。聡は後ろを警戒しながら彼女を駅のホームまで見送り、電車に乗るのを確認すると、自分も身の危険を感じ、別のホームから出ている最寄り駅までの快速に乗った。女性から名前や連絡先を何度も訊かれたが、聡は頑なに口を閉ざした。むしろ礼を言いたいのはこっちだった。
(俺にも武勇伝ができたんだ!)
 聡は自分の顔がにやけていないか、何度も電車の窓を見て確認した。

(試し読み終了)

本作は「八幡謙介短編集」に収録されています。

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