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【小説】芸人は凄いねんぞ、林檎

こちらは八幡謙介が2015年に発表した小説です。


芸人は凄いねんぞ

 松田雅志は、さび付いた工具を無理矢理たたむように、全身の関節を軋ませながら、ゆっくりとファミレスの椅子に腰を下ろした。デビューしたての頃によく相方とネタ作りで徹夜した店だったが、売れてからは一度も来たことがない。芸人を引退し、変装をせずに外を歩いても顔を指されなくなった頃から、この店で不味いコーヒーを飲むことが松田のささやかな楽しみとなっていた。とはいえ、伝説のお笑い芸人として名を馳せた彼に気づく若者もまだ少しはいた。そういったとき、決まって 「おじいちゃんがファンなんです。」と言われ苦笑いするのだが、それをネタに大勢の人を笑わせる機会は松田にはもうなかった。
 「コーヒーでよろしいですか?」と訊く顔なじみのパートの女性にひとつ頷くと、両手を机の上で組み、さきほどの講演を反芻した。
 ――こんなはずやなかったんや……
〈笑いが導く、ニッポンの明るい未来〉というテーマで、若手から中堅の芸人に討論をさせるという内容だった。討論自体はよかったと思う。笑いも――松田としては腑に落ちない部分もあったが――少なくはなかった。ただ、問題は客だ。
 松田は客を観察できるよう、後ろの角の席を取っていた。そこから、時折客席の様子を伺っていたのだが、彼らの表情には、終始〝尊敬〟の念が現れていた。それが笑いを減退させていることは、この道を究めた松田でなくとも容易に理解できることだった。
 ――俺のせいや……
 松田はひとつ溜息を吐くと、いつの間にか運ばれていたコーヒーを一口すすった。


 松田雅志は、高校卒業と同時に幼なじみの浜本と、当時開校したばかりの大阪のお笑い養成所に入り、伝説のコンビ〝アップタウン〟を結成した。師匠につくことがまだ当たり前の時代であり、卒業後先輩たちからは 「お笑いの学校出身やて? ほんなもん役立つかぇ。」とさんざん悪態をつかれながら舞台で腕を磨いた。
 瞬く間に大阪のスーパースターとなったアップタウンは、数年後東京に進出し、コント番組で全国的な知名度を勝ち得、名実ともに日本一のお笑いコンビとなった。その後も、当時としては異例のお笑い芸人が司会を務める音楽番組を開始するや、CDバブルとあいまって毎週高視聴率をたたき出し、音楽界では突っ込みの浜本に頭をはたかれると売れるというジンクスさえ生まれた。

(試し読み終了)


林檎

 Kはギター教則本の執筆をきりのいいところで止めると、お気に入りのシャツを羽織り、いつものスーパーへと夕飯の買いだしに出かけた。午後二時過ぎだが、今日外に出るのはこれが初めてだった。ブラウザの人工的なライトに疲れた瞳に、真っ青な空が刺すように眩しい。まだ初夏ともいえない遠慮がちな陽気が運動不足の Kの体を優しく包むと、「たまには外に出ないとな。」といつものお題目を彼は頭に浮かべるのだった。
 スーパーへは商店街を真っ直ぐ進んだ方が早いのだが、Kはパチンコ屋の喧噪を嫌って、いつもわざわざ裏道を廻っていく。平日の昼日中に堂々と出歩く彼に、赤ちゃん連れの主婦が訝しげな眼差しを向けた。もう慣れっこだった。コンビニのある角を曲がって、改めて商店街に入れば、すぐ右手にいつも通っている小さなスーパーがある。店はこじんまりとしていて品揃えはそこそこだが、近いのと、何より酒類が驚くほど安いので重宝していた。
 入り口手前で緑のカゴを手にし、Kは気怠そうな眼差しで中へと進んだ。さっさと買い物を済ませて早く帰ろう。
 すぐ左にある段ボールからタマネギを無造作に掴んでカゴに入れ、早足でさらに中へと進んでいく。急いでいるわけではない。ただ、Kにとって、夕飯の買い出しを楽しむ理由がないだけだ。買いだしは単なる用事である。そして、用事は最短時間で済まされるべきだ。そういった考えが、Kの足取りをせかせかとさせてしまうのだろう。
 青果コーナーに向かうと、背中を少し丸めた中年の女がカートを停め、辺りを占拠するようにして果物を選んでいた。Kは目当ての林檎をひとつ――どれでもいい――ひとつだけさっさと手にして次に向かいたかったのだが、女は動かない。Kは、女が着ているよく分からない柄の派手なシャツを憎々しげに見つめた。わざわざ女がどくのを待たなくても、先に別の買い物を済ませてからまた青果コーナーに戻ってくればいいのだが、どこか頑固なのだろう。イライラを募らせ、小さく足踏みをしながら、じっと女がどくのを待っている。そうして、彼女がようやくひとつの林檎を手に、カートを動かした瞬間、Kはこれ見よがしに腕を伸ばし、さっさと林檎をひとつ手にした。
 ――このどうでもいいくすんだ色の林檎、数時間後にはぐちゃぐちゃに咀嚼され、胃酸で跡形もなく溶かされる物体を手にするために、数十秒もかかってしまった……。
 Kはその事実を忌々しく噛みしめた。

(試し読み終了)

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