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モラルに生かされている

「信号がない横断歩道では歩行しようとしている歩行者がいたら車は一時停止しないといけない」というのは道路交通法で定められている。
しかし、自宅から駐輪場までの道に信号のない横断歩道があるのだが、体感止まってくれる車なんて1割にも満たない。
基本的にはその奥の赤信号で交通が途切れて、その前の集団の最後尾の車が過ぎ去った後に自分が渡るという形だ。

これに関しては自分で車の免許を取った時に驚愕した覚えがある。「ええ…あれ義務なのになんであんなに止まってくれないんだ…」と。
仮に自分が飛び出してみようもんなら恐らく轢かれて死ぬだろう。
それはきっと車側も「まあこれは飛び出してこないだろう」と思ってブレーキを踏むという考えがほぼないからだ。

この「まあ飛び出してこないだろう」という考えや、逆に歩行者として横断歩道を歩いている時に浮かぶ「今止まってくれているこの車は急発進なんてしないだろう」という考えは危険だなとふと思うことがある。

運転する時の心構えとして「かもしれない運転」というのがある。これは「歩行者が飛び出してくるかもしれない」などといった不測の事態が起きても対応できるように頭の片隅に置いておきながら運転しましょうねというものだ。

対して上の考え方は言うならば「大丈夫だろう行動」と言ったところだろうか。
「今待っている歩行者は飛び出してこないだろう」「止まってくれている車は突っ込んでこないだろう」
基本的にはこの「〜だろう」という考えは正しいのだが、それは結局モラルがしっかりとしているからに過ぎないと感じる。

もしどうしようもないくらい人生に絶望している人が車を運転しているとして、横断歩道にすごい楽しそうな集団がいたら嫉妬で轢き殺してしまう可能性だってある。これが極端な例なのは分かっているのだが、どうしてもそんな考えがふと頭をよぎってしまうのだ。

結局のところそういう事故がほぼほぼ起きないのは我々がモラルに生かされているということなのだろうなと思う。
何に代わってとかでもないし、逆にモラルだけに生かされているわけではないのだが、それでも社会的生物として存続している理由の1つにモラルは間違いなくあるだろう。


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