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正しさについて考える

今後の人生どうやって生きていこうかとあれこれ思い悩んでいると、ふと「正しさとは何か」みたいな考えにぶち当たります。

キャリアデザインみたいな観点だと、資格を取ろうだとか、営業力を上げようだとか、お決まりの正解みたいなものはいくつか存在しています。そういったノウハウはこれまでの先人が築いてきた努力の賜物だし、本やインターネットでその情報を手に入れて、実践していくことはとても大事だと思います。

ただ、そういった正しさばかりを追い求めていくとどこかでつまずいてしまうような気がしてしまいます。

僕は、昔から真面目な子になるように育てられ(性格的にもそうだったけど)、小中高大とあまり目立つことはなく、そこそこの成績を取って、順当な人生を送ってきました。ありがたいことに両親は大学までのレールを引いてくれ、そこに乗って進むことが正しいと思っていたし、そこに後悔はありません。

もちろん正しいことをするべきだとは思うけど、「正義と悪は紙一重」なんて言うように、その正しさも見方を変えると悪にも成りえると思います。その正しさはあくまで誰かが決めた世界の中での正しさであって、もしかしたら僕の場合は悪なんじゃないか、なんて思ったりします。

学生時代、自分がやりたいことや進みたい方向をちゃんと考えることをせず、両親が与えてくれた選択肢を無批判に受け入れ続けてきました。それは両親(や親戚)から正しいと思われるために取った行動でした。なので、自分の気持ちがそこに関与することはほとんどありませんでした。悪と言われるとまた違うかもしれませんが、無関心に近いものでした。

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「正しさ」という話をする時に思いつくのは、太宰治の『人間失格』です。

仮面を被って生きてきた主人公の葉蔵が、その気持ちと行動のギャップからどんどん生きることが苦しくなっていく、といった話です。葛藤の中でもがきながらも、自分の生きる道を探して破天荒な行動を繰り返す葉蔵に対して、友人が一言言います。

「これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」

太宰治『人間失格』

これに対して葉蔵は、心の中で感じます。

「世間というのは、君じゃないか」

太宰治『人間失格』

これは現代でも共通しており、個々人が作り上げた正しさを、人に対して押し付ける時に「世間」という言葉が使われています。しかし、世間という実態なきものはあくまで空気であり幻想です。葉蔵が感じていたギャップは世の中に蔓延する「世間」という悪への葛藤でした。

自分の正しさが他人の正しさではないように、自分の気持ちより世間を優先してしまうと、正しさは悪にもなってしまう、と思いました。

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では「正しさ」とは何か、ということですが、これまでのことを踏まえると、「自分の気持ちに寄り添うこと」だと思いました。

世間という幻想に囚われることなく、自分の気持ちに寄り添って正しく生きていくことが、ひとつ大切だと思いました。

僕は新卒で就職活動をしていた頃、自分の正しさに対してとても苦しむことになりました。それまでの人生、気持ちに寄り添うことをほとんどしてこなかったため、自分の気持ちがわからなくなってしまいました。就職先も大手企業に順当に決まるも、仕事を楽しめず、途中で挫折を感じてしまいます。その後、25歳になって、ようやくひとつ壁を乗り越えられ、日本での安定した生活を捨ててでも、外国で働きたいと思い、フィリピンでの就職を果たしました。そして、昨日の投稿にも書いた通り、来月からはフィリピンを離れて、ジョージアへ行きます。

世間的な正しさを求めていたら今でも僕は日本にいたと思うし、前職も辞めていなかったと思います。とはいえ、まだまだ悩みは尽きないし、自分の正しさの本質にも到達できていません。でもそうやって考えて行動することで、また新たな自分が見つかることもあり、そんな時生きてて良かったなって思います。

これからも悩みの多い人生を送っていきます。

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