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二千四百年以上の歴史を伝える、新潟県・弥彦山の信仰と伝説

越後平野に浮かぶようにそびえる、三角錐の端正な山容の山、弥彦山。その麓に里宮を、頂に御神廟を持つ彌彦神社は、3つしかない鎮魂祭を行う神社として知られる。その理由は、二千四百年以上も前――、弥彦山に祀られている天香山命の神武天皇の「神武東征」での活躍から来るものだという。

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広大な越後平野の中央に固まるように聳え立つ弥彦山脈の主峰である弥彦山は、北に位置する多宝山との双耳峰である。北に角田山、南には国上山へと連なる634mの低山ではあるものの「日本百名山」の著者・深田久弥も、その後書きにて「名山には違いないが絶対的な標高が足りなかった」とあえて述べているほど、秀麗な山容をしている信仰の山である。

その信仰の源流を辿ってみると、御山への信仰はそのまま麓の弥彦神社が担っており、麓の里宮に対して山頂には奥宮的存在の御神廟が奉祀されている。

中心となるご祭神は伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)とされ、別名に天香山命(あまのかごやまのみこと)の名を持つ。この天香山命はさらに別名を持っていて高倉下命(たかくらじのみこと)とも呼ばれ、日本創生の神話・初代天皇陛下である神武天皇の「神武東征」にて活躍した神様と伝わっている。

そのくだりを説明すると――、神武天皇がまだカミヤマトイワレヒコと呼ばれていた時代に(天皇として即位する以前)、日向の国から東に向けて出兵し、各地をおさめる勢力と時には合流し、時には戦い大和(奈良)の地を目指していた。

長い年月をかけて東に進んできた神武天皇だが、大和を目前に最大最強の反乱軍と出会うことになった。その勢力を率いていたのがナガスネヒコと呼ばれる国津神(現地土着の勢力)で、天津神(天孫降臨してきた神々の系譜)として大和入りしようとする神武に対し、「我々にもニギハヤヒという天津神が存在する。天津神はそんなにたくさんいるものではないだろう。ゆえにあなたを信じるわけにはいかない」と、神武の大和入りを阻止しようと戦いに臨んだという。

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ここで登場する「ニギハヤヒ」とは、日向に降臨した神武の祖先であるニニギノミコトに先だって、大和の地に降臨したと伝わるニニギの兄とされる神である。ニギハヤヒを奉ずるナガスネヒコ軍団の強力な抵抗にあい、神武勢力は瀕死の状態となってしまう。

当時、神武は今でいう大阪方面からの大和入りを断念し、「そもそもが太陽神天照大神の子孫である自分たちが日が昇る東に向かっていくことが間違っている」と、紀伊半島をぐるりと大回りして和歌山県の熊野川あたりから大和を目指す行軍を選択した。

その道中で、さまざまな問題や危険に遭いながら戦いを繰り広げていく中で、神武は山の神々の毒気にさらされて身動きが取れなくなってしまう。そこに、もの凄いタイミングで宝と力を携えて救いの手を差し伸べた者こそが、高倉下という存在である。高倉下は弱り切っている神武に対し、建御雷神(タケミカヅチ・出雲国譲りの際に活躍する武神)経由で十拳剣を送り届け、ピンチを救ったと伝わっている。

その後、復活を果たした神武は再度ナガスネヒコと対峙することとなるが、ここで天津神であるニギハヤヒがナガスネヒコの首を神武に差出し、戦いは終焉を迎える。そして、晴れて神武による「ハツクニシラス(初めて国をおさめる)」東征が完結している。

この日本創生の重要な神話に登場する高倉下こそ、天香山命その神である。天香山命は神武天皇救出の功労から布都御魂剣を賜ったといい、その後は兵を率いて尾張から信濃、そして越を平定したと伝わっている。最終的には越後国開拓の詔を受け、越後国の野積の浜(現在の長岡市)に上陸し、地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとも伝えられる。

そんな偉業を成し遂げた天香山命(=高倉下)は、弥彦山に祀られ「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。それが、現在の弥彦神社という訳だ。

​そして同社は、宮中でも行われる鎮魂祭(​​新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式)を行う神社のひとつとしても有名である(この鎮魂祭が継承されているのは、ほかにも石上神宮、物部神社がある)。​​何故、弥彦神社で鎮魂祭が行われているのか。それはこの鎮魂祭はニギハヤヒが遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を神武天皇に献上し、それを使い天皇と皇后の魂を鎮める呪術を実施したことに始まるとされているからで、​​弥彦神社に祀られる天香山命(=高倉下=伊夜比古神)が如何に日本の神々にとって重要なポジショニングなのかがわかる。

日本創生の神話に登場し、神々に伝わる剣を中心に語られる天香山命(=高倉下=伊夜比古神)は、その存在自体が呪術的でもあり武功的でもあり、国土創生にかかわる重要な神と言える。その偉大なる神を奉ずる弥彦山も、今ではロープウェイで山頂まで数分で到着できてしまうが、もちろん自らの足で一歩一歩神に近づく登拝路も残っている。

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休日ともなると山頂付近のロープウェイ駅周辺は多くの方が山に抱かれにやってくる。この土地に住まう人々の心の故郷になっていることは間違いないだろう。天気が良い日などは天香山命(=高倉下=伊夜比古神)の御神廟の周辺にも、たくさんの人が集まり、弥彦の山を楽しんでいる。その姿に、天香山命(=高倉下=伊夜比古神)がつくられた越後の國の国づくりの姿そのものを見ることが出来る。

※こちらの記事は、YAMAKEIonlineに掲載していただきました。

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