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妙連な山容に蘇りの神をみる――妙義山登拝から見えた日本人の心の在りようの変化

奇怪な山容、厳しく危険な登山道、美しい新緑や紅葉などに誘われ、多くの登山者・クライマーが訪れる妙義山。古来からの信仰の対象とされてきた山の歴史を辿っていくと、そこには日本人の心の在りようの変化を感じることができる。

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断崖絶壁、奇岩だらけの絶景――。古い火山が長い時間をかけて浸食を受けて硬いところが残った結果、異様な形をした嶺の多くが連なり、白雲山、金洞山、金鶏山という山が生まれた。その三山の妙連な姿から総称として“妙義山”という名称が付けられた。

古来では祈りの山として、時代によっては武家による戦勝祈願の対象として、また歴代将軍をはじめ各地大名の崇敬を集めたほか、江戸時代には江戸東叡山寛永寺の座主輪王寺宮の隠居所となり、その御宿坊を“宮様御殿”とも称したほどの隆盛を極めていた。

この地に住みついたであろう縄文人の暮らしを伺える様々な遺跡からも、その礎である信仰の存在跡が見て取れる。遠目にも妖しく聳える姿を見せるそのフォルムは、現代においても言葉では表現しきれない、この星のエネルギーの源泉を観ることが出来る。

信仰の対象であった妙義山には、この国の辿ってきた心の在りようが、各所にまざまざと残っている。最初に参詣者を迎え入れるのは仏教山門であり、境内各所、山中の様々な箇所に仏塔後がその姿をみせる。神社であれば奥宮となるべき箇所を「奥の院」と表現していて、かつて大日如来を祀っていた歴史を有している。

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妙義神社が鎮座する白雲山中腹には、今でも巨大な“大の字”が置かれ、大日如来を表現していたとも、妙義大権現を表現していたとも伝えられている。大日如来はそのもの仏であるが、大権現という表記ですらまさに神仏習合の名残りである。

その神仏習合の信仰形態は明治以前、多くの修験者たちを迎え入れ、いつしか天狗の御山とも呼ばれた。明治以降の神仏分離・廃仏毀釈により山中の仏塔は壊されたため、現在の奥の院には大日如来がお座りになっていた蓮の台座の一部がそのまま残っている。

時代とともに人の暮らしは変化を余儀なくされ、それとともに信仰の形も変化するのは世の常である。痛々しく残る廃仏毀釈の残像にこそ、日本人の心の在りようの変化を感じることのできる御山と言える。

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また妙義神社は波古曾社と呼ばれるお社を境内に抱いているが、この波古曾社こそが古来より脈々と繋がってきた妙連なる御山の信仰であるといえる。なぜなら妙義神社に伝わる古文書には、古来、この山のお社を波古曾社と呼んでいたことが記載されているからだ。「波」は当て字であり、正しくは「は=わ」の音で、山容を表現した「わ」は「いわ」の略称であることが読み取れる。

また「古曾=コソ」の音は古代朝鮮語で「コソ=社」であり、古代の日本と大陸の信仰の関係性すらも表現していると言える。つまり現代の言葉に翻訳すると「岩神社」そのものであり、岩山そのものをご神体として崇め祀っていたことがわかる。

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本質的なその地の信仰に想いを馳せると、現在の固有名称をともなう神々への信仰のその先に、偉大なる自然崇拝を感じざるを得ない。

今では、その山容から多くのロッククライマーに愛されるが故に、滑落事故なども多く発生し、世界有数の死者を産みだす山となっていることも事実である。しかしそれは、山、峰、崖を人間の力で制する考えのもとにあるクライミングの先に訪れる現実であることが、僕にとっては改めて山へのアプローチを考えさせられるきっかけとなってきた。

危険ではない山はない。すぐそこに「死」を意識することで、普段忘れてしまいがちな「生」そのものを感じることに繋がり、その危険に自ら身を投じることは、さながら黄泉の国へ自ら歩を進めることに近いのではないだろうか。

その時、その一挙手一投足に意識を傾け、自然への畏怖とともに歩を運ぶことで、ただただ無事に下山できることを願う。それはまさに、黄泉の国から無事に帰ってこれるからこそ「黄泉帰る=蘇る」という言葉で表現されてきた日本人ならではの御山との関係性を表している、と僕は考えている。

※こちらの記事は、YAMAKEIonlineに掲載していただきました。

★ ** #神社学 ** 最新情報★ 

・自由大学(東京表参道)神社学
https://jinnjagasuki.themedia.jp/posts/6999304?categoryIds=1978681

・自由大学(東京表参道)神社学オンライン
https://jinnjagasuki.themedia.jp/posts/8833604


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