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『言葉』の可能性

『言葉の価値って相対的に下がってるなぁと思っていて。』
『基本的に言葉って、情報を圧縮する以外の意味があんまりないと最近は思っています。』

この言葉は両方、ぼくが昨日読んだ記事のなかに出てきました。

記事というのは、けんすうさんとぼくりりさんの対談記事です。めちゃくちゃ面白かったです。

ちなみに、冒頭の言葉は両方ともけんすうさんの発言からです。

この記事を読んで、改めて『言葉』について考えました。

なにかすぐに答えが出るほど簡単な問いではないですが、だからこそ、ずっと考え続けることが大事なのかなと。


『言葉』は情報を圧縮するもの

まず、冒頭の発言から考えます。

記事での登場順番に合わせて、まずは『基本的に言葉って、情報を圧縮する以外の意味があんまりないと最近は思っています』について。

その後に続く言葉を引用します。

昔は大容量のデータの受け渡しが可能なテクノロジーがなかったからねんど板や紙に書いたりしてで容量を落とすしかなかったけど、ここ数年で人類史上初めて、容量を気にせず情報のやりとりをできるようになった。
動画で送ればいいよね、っていう話に近いんですけど。

ぼく昨日、1ヶ月くらい前から読み始めた『サピエンス全史(上)』をやっと読み終えたんですけど、そのなかにも似たような話が出てきていました。

めちゃくちゃいろんな経緯を省略して、且つぼくの記憶が正しければ、たしか人間は農業をするようになって、大勢でまとまって生活するようになったとき、諸々の大量データを記録する必要が出てきました。

それまでは口頭でのコミュニケーションのみだったんですが、さすがに口承だけで全部のデータを保存するのは無理ということで、発明されたのが『文字』だったのです。

ただ、当時はそれだけでも大発明だったのですが、『文字』はあくまでも『記号』なので、変換の過程でたくさんの情報が削ぎ落とされています。

『言葉は情報を圧縮するもの』というのは、そういう意味です。


『言葉の価値』が相対的に下がる

次に『言葉の価値って相対的に下がってるなぁと思っていて』について。

後には、こんな言葉が続いています。

言葉だと100を1くらいに圧縮して情報を送ってたのが、動画だと20くらいで送れる。

これは、そのメディアが伝達できる情報量の話で、具体例として『文字』『画像』『動画』を考えます。

結論から言うと、情報量の多い順に①動画②画像③文字です。

例えば、あなたがアイドルのコンサートに行ったとします。

もうとっても楽しくて、この興奮をどうにかして友だちに伝えたいと考えました。

そのとき、『文字』を使おうと思ったら、まあブログを書くなりLINEを送るなりするわけです。

『もーAKBサイコー!身動き取れないくらいたくさんに人が来てて、ものすごい熱気で、演出もめっちゃ凝ってて、一生忘れられない思い出になった!!!!!!!!』と書いたとしましょう。

まあこれでも楽しそうなのはそれなりに伝わってきますが、たくさんの人が来てるのも、演出がどんなのだったかも、もし『画像』があれば一瞬で伝わります。

しかも『文字』よりも正確に。

ただ、もう『動画』を使えば『画像』以上に、その興奮をより正確に伝えられます。

『熱気』なんていう言語化しずらいものも、『動画』なら伝えることができます。

しかし難点は、言ってしまえば当たり前なんですが、文字→画像→動画と情報量が増えるほどに、それ自体を送るハードルが高くなることです。

画像は文字よりも読み込みが遅いし、動画をアップロードするのはとても時間がかかります。

なのでこれまでは、一番データ量を圧縮できる『文字』が重宝されていました。

ただ、いまは通信機器の性能が上がって、だんだんとデータ容量を気にする必要がなくなってきたのです。

こうなると、『文字』のウリのひとつであった『軽さ』が、魅力として相対的に小さくなります。

『言葉の価値って相対的に下がってるなぁと思っていて』という言葉の意味は、そういうことです。


『言葉』を過信しすぎない

けんすうさんの考えに続いて、次はぼくがこの記事を読むまでの時点で『言葉』について考えていたことを書きます。

上の『文字は情報量が少ない』という話ともつながってるんですが、評論家の宇野さんが以前話していて印象的だったのが、『言葉は断絶を生むことしかできない』というものです。

宇野さんのイベントに行って、当時ぼくが書いた感想から引用します。

「言葉」って、今ある現象の「一部」しか取り出せないのにも関わらず、それがすべてであるかのように受け手は感じてしまいます。
なにかフワフワしていて抽象的なものを、「言葉」として具現化することによって、言語化されなかった要素は剥ぎ取られてしまう、そんな怖さがあります。

引用:強い個人になりたければ、「悟空」ではなく「ルフィ」を見習え

要は、事象を『言葉』という情報量の少ないメディアで切り取ることによって、どうしても削ぎ落とされるものがあり、それによって生まれた溝が断絶を生んでしまうということです。

宇野さんはそのイベントで、『だから言葉を過大評価しすぎないようにしている』と言っていて、『言葉』を商売道具として扱っている宇野さんの発言だからこそ、非常に重みがありました。


それでも『言葉』が大好きだ!

ここまで『言葉』に関して非常に暗めな話ばっかりしてきました。

しかし!!!

情報を圧縮することしかできなくても、相対的に価値が下がっていても、その特性として断絶を生んでしまうものであっても、ぼくは『言葉』が大好きです。

『言葉』によって、背中を押してもらったり、勇気を与えてもらったりする経験が、これまで何度もありました。

それに、ぼくは世の中を『ビジュアル』や『音』よりも、どうしても『言葉』で捉えてしまいます。

だからやっぱり、ぼくのなかに占める『言葉』の割合は、とっても大きいです。

ちなみに、最近よく聞く『テキストVS動画』っていう二項対立には興味がなくて、動画だって、そこで人間が話していたら、それは『言葉』を使っているということになります。

だからあえて、今日のnoteのいくつかの場面で『言葉』ではなく『文字』という単語を使ったりもしました。

けんすうさんや宇野さんの言う通り、『言葉』にもできることできないこと、得意なこと不得意なことがあって、そこは過信するべきではないです。

でもやっぱりぼくは『言葉』が好きなので、『言葉』のできること、得意なこと、つまり、『言葉の可能性』についてこれからも考えていきます。


★下のnoteを書いたときは『テキストVS動画』の二項対立で捉えてたけど、今回改めて考えて、ぼくは『文字』じゃなくて『言葉』が好きなのだなと


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