「読書」という名の言い訳
ぼく、本を読むのがめっちゃ遅いんですね。
基本的には毎日1時間くらい、本を読む時間を確保するようにしているんですけど、月に7~8冊くらいしか読了できていません。
ぼくの場合、自分でもいうのもなんですけど、小説とかエッセイとかはまったく読まないで、小難しいことが書いている本とか、そこそこ分厚い翻訳書とかを読むことが多いので、そもそも冊数を稼げるような読み方はしていないんですけど、、、
ただ、それを差し引いても、毎日1時間も取っておきながら、月に10冊も行かないっていうのは、個人的には少ないなあと。
だから、折に触れては「どうすればもっと速く、もっと効率的に本を読むことができるのか」っていうことを、考えてきました。
しかし最近、「自分のこの本を読むことが遅いのにも、なにか意味があるのかな」と思うようになってきて。
それでたどり着いたのが、ぼくは「本を読む」という時間を通して「物事をじっくり考える時間」を確保していたのかもしれないなという気づきです。
ぼく、本を読みながら、もちろん本の内容は頭に入っている(つもり)だし、本の内容に関連した物事についても考えているんですけど、それだけじゃなくて、本の内容とはほとんど関係ないようなことも、同時に考えていることがけっこうあるんですね。
つまり、「本を読む時間」という、「他の仕事や人からの連絡の優先順位が一時的に落ちる時間」を持つことによって、「じっくり物事について考える時間」を取っていたのだなと。
「読書」が「じっくり物事について考える時間」を取るためになんで良いのかっていうと、「情報量が少ないから」なんですね。
これがたとえば動画を見ながら考えごとをしようと思っても、動画だと情報量が多くて、頭の中で「別の考えごと」をする余裕がありません。
もしくは、そこで無理に「別の考えごと」に頭のエネルギーを使ったら、残りのエネルギーでは動画の情報量を吸収しきれなくて、「この動画って何を言ってたんだっけ?」状態になってしまいます。
だからぼくにとっては「テキスト」が、別の考えごとをするための、程よい「言い訳」なのかもしれません。
いまの時代、インプットとして入ってくる情報は多すぎるし、いつでもどこでもアウトプットできる環境が整ったので、無意識的に過ごしていれば、「インプットとアウトプットの高速移動」だけで1日が過ぎてしまいがちです。
そうではなくて、仕入れたインプットを「考える時間」を通して複数のインプットをつなげたり、ひとつのインプットをじっくり耕したりすることによって、より大きなアウトプットへとつなげることができます。
そういえば、最所さんが『毎日更新からの、卒業のとき。』というnoteで、「noteは考える時間を確保するために書いていた」と言っていました。
ぼくがnoteを毎日更新をやっている理由のひとつは、この「考える時間を確保する」ためです。
ただ、今回自分の本を読む遅さについて考えるなかで、「読書」も、「じっくり考える時間」を確保するために役立っていたのだなと、気づきました。
ということで、これだけ世の中の変化が急速な時代、多少強引にでも「じっくりと考える時間」を持つことはとても大事だなと、改めて感じたという話でした。
ぼくの場合はそれがたまたま「読書」だったり「noteを書くこと」だったりしたわけですが、それは人それぞれ合う「いまは他の物事の優先順位を下げてじっくり考える時間」という「言い訳」があると思います。
じっくり考えることによって、変化の激しい時代を一緒に生き抜いていきましょう!
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