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本当に「成果だけ評価される社会」は来るの?
「過程じゃなくて成果のみで評価される時代がやってくる」みたいな話、在宅勤務の加速によってよく聞くようになりましたよね。
別に仕事ってそもそもそういうものでしょ?という意見は一旦置いておいて、現実問題として、まあ残業代が顕著ですけど、「どれだけ成果を出したか」という指標とはまた別で「どれだけ成果を出そうとしたのか」も評価する制度がこの世にあるのは事実です。
それで、「べき論」としては、やっぱりそれが仕事である以上、指標として用いられるのは「成果」のみである「べき」で、今後それが加速していくだろうという言説も別に否定はしないのですが...。
あまりにもその言説を当たり前かのごとく、雇う側も雇われる側も使うので、ここは天邪鬼的に、あえて「過程も評価される世界が仮に残るとしたら」について、きょうは書いていこうと思います。
というのも、ちょっとした違和感というか、「そんなスムーズに慣習って変わる?」というモヤモヤを抱えつつ、頭の片隅で寝かしていたところ、ちょうどちきりんさんが近い議題を扱っていたので、これを機に、現時点でぼくの中でまとまっているところまで書いてみることにしました。
きょうのnoteは普段以上にまとまりのない感じになると思います。
めっちゃ前置きが長くなってしまったのですが、今回のnoteを書く最後の一押しをしてくれた、ちきりんさんのエントリは下記です。
ぼくの解釈という前提でめっちゃ簡単にエントリの内容をまとめると、タイトルの通り、今回の新型コロナウイルスの影響により失業してしまった人に対して、支援が漏れてしまっているケースが見受けられるから、もう国が直接みんな支援しちゃえばいいんじゃない?という言説は安直じゃない?という話です。
自分で書くとおこがましいですけど、ぼくが根っこのところで持っている課題は、今回ちきりんさんの書いたブログと近いのかなと思いました。
ブログ中、特に印象に残っている箇所は以下です。
あたしの感覚では、日本人の多くは「今月の生活費」や「来月の生活費」を国からもらえることより、
「○○会社で働いている」という状態=雇用が維持できるほうが「安心」だと思っているように感じたりもするんですけど。
一瞬冒頭の話を進めてから、この引用文に戻ってくるのですが、冒頭で「成果だけで評価される時代が本当にくるのかな?」と書きました。
この「成果だけで評価される世界」って、もう少し噛み砕くと「一部のめっちゃ仕事ができる人はめっちゃお金がもらえて、それ以外の人は仕事もお金ももらえなくなる」って世界です。
「仕事」によってお金をもらえる「人数」は一旦減っても、仮に世の中全体の富の生産量は変わらないと仮定するなら、究極的には「仕事ができない人」も、税制なのかベーシックインカムなのかはわからないですけど、「再分配」によってお金「は」手に入るかもしれません。
というか、「仕事ができるできない」って、人同士の相対評価でも絶対に「仕事ができない人」は一定数出してしまうし、今後より機械がパワーアップして、「機械」と「人間」の生産性を比較されていく中で、どんどん「機械」の方が勝る業務もいっぱい出てくるはずです。
だから、「仕事ができない」烙印を押されてしまう人は、どっちにしろ一定数以上、絶対に出てしまいます。
でも、「その分仕事ができる人がいっぱい働くから」とか「税金で再分配されるから大丈夫」とかって話では、全然ないと思うのです。
ここでようやくちきりんさんの引用文に戻りますし、間が空きすぎたので、念のためにもう1回掲載させてもらいますが、
あたしの感覚では、日本人の多くは「今月の生活費」や「来月の生活費」を国からもらえることより、
「○○会社で働いている」という状態=雇用が維持できるほうが「安心」だと思っているように感じたりもするんですけど。
大事なのは「お金をもらえるかどうか」ではなくて、自分も「何かしらの役割がある」という心理なのではないかと思うのです。
社会的な観点で見たときに、世の中の大多数の人が「自分の(仕事的な意味での)役割がない」って感じてる状況、不安定すぎて不健全です。
あと、たまに「雇う側」の人たちの視点から、「これで仕事のできない人を雇う必要がなくなる」的な話もSNSで見かけるのですが・・・
これにもあえて、懐疑的な意見を書いておくと、「一部の仕事できる人に需要が集中するって、逆に「雇われる側」が「雇う人」よりも強くなる可能性もある」なと思うので、別にそんなに「雇う」側の人たちがドヤれる話でもないと思うのです。
そのひっぱりだこになっている一部の「仕事のできる人」には、相当なお金を払わないと来てくれないでしょうし、いくら働き方の多様性が出てきていると言っても、人間である以上、必ず「できる仕事量」という「キャパシティ」があるので、どれだけお金を積もうが、「来てくれない」という可能性もあります。
一言でいうと、「その仕事ができる人が仕事をしたいと思う環境が、その会社にはあるのですか?」が、これまで以上にシビアに問われることになってくるということ。
そして、結論から言ってしまえば「一部のできる仕事ができる人」に選んでもらえない企業も間違いなく一定数出てくるので、そうなると結局、「(少なくともいまは)仕事ができない人」を雇って、育成するしかありません。
そうなると、何に対して給料を払うのかというと、結局、「成果」は(その時点では)出してないわけですから、「成果が出るように努力している」という「過程」に対して、お金を払わざるを得ないのです。
すごく「雇われる側」に寄った書き方をすると、「お金を払う言い訳を用意する必要がある」ということです。
本当に企業が「成果」だけで評価するのなら、逆に「成果を出せる人」を雇えなかった企業は、仕事が(物理的に)できなくて、倒産してしまいますからね。
だから、「一部の仕事ができる人を(現時点では)雇うことのできない」企業のためにも、「過程」も評価対象に入れる慣習は、しばらく残るというシナリオは、十分にあり得ます。
そして、社会全体の安定性を考えたときに、ごく一部の人にだけ「仕事面での役割がある」という状態は不健全です。
だから、社会全体の「べき論」という観点で見たときにも、「過程」にも評価を与える慣習が残るってシナリオは、全然変ではないと思います。
ということで、きょうはあえて天邪鬼的に「そんな簡単に成果だけで評価される社会って来るのかな?」という話を書きました。
もちろん、「雇われる」側のべき論として追い求める指標は、「成果」一択ですけどね。
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