自分から「大衆」に飛び込んでいくカッコよさ
歌でも服でも動画でも、なにかしらを創っている人たちにとって、『自分の表現したいものを表現して、分かる人にだけ分かればいい』と『どんな人にでもウケるような大衆的なものを』という、二項対立的な考え方があると思います。
そして、一般的なイメージとしては前者の『分かる人にだけ分かればいい』タイプのほうが、作品としての専門性が高くて、後者の『どんな人にでも』タイプの方が、濃度が少し薄まった感じがします。
だから、たとえばバンドが一番分かりやすいかなと思うんですけど、前者から後者タイプへと変わっていく例としては、最初は自分の表現したいものを存分に表現して、理解あるファンがどんどん増えてきていい感じになっていたら、どこかのタイミングで有名なレーベルと契約をして、古参や玄人なファンから『あいつたちは変わってしまった..』と言われてしまう、みたいなパターン。
ぼくもいままで、なんとなく『対象の層が広がっていけば広がっていくほど、最大公約数的な創り方になって、クリエイティビティが下がってしまうのではないか』、つまり『作品の濃度』と『ターゲットの広さ』はトレードオフになってしまうのではないかと考えていました。
ただ、最近はそうでもないぞ、そこは二元論で語れるものではないのかもしれないぞと思うようになってきました。
たとえば、最近の日本のポップソングを引っ張っている男性アーティストといえば、米津玄師さんだったり、King Gnuだったり、Official髭男dismだったりですが、彼らのインタビューを読んでいると、異口同音に『超メジャーなポップソングを作りたい』『王道ど真ん中の歌を作りたい』と話しているんですね。
自分の好きなように歌っていたら、結果的にヒットしたのではなくて、最初から『全員にウケる歌』を志向していたのが意外だったのと、そして同時に『めっちゃカッコいい』と思いました。
ぼくの個人的な感覚として、メジャーになればなるほど、どうしても『世の中に消費される』とか『分かりやすすぎて作品としての深みがない』とかってネガティブな側面が頭をよぎってしまうんですが、彼らは意図してそこに飛び込もうとしている。
そこには『おれたちの歌は全国民に歌われたくらいで、消費されるものじゃない』っていう意志も感じました。
実際、米津玄師さんのLemonとか、King Gnuの白日とか、Official髭男dismのPretenderとか、YouTubeでの再生回数がもうすごいことになってますが、彼らの歌が『消費された』と思っている人は、1人もいないはず。
むしろ、歌われれば歌われるほど、いろんな人の想いや記憶とリンクして、より厚みを増していっているような気さえします。
ちょうど1年前くらいに書いた、
というnoteのなかで、10年後にも歌い継がれる名曲は『トレンド分析の器に収まらない、もっと人間の普遍的な心理を歌った曲』なのではないかと書いたのですが、こうなるとやっぱり『少数に深く刺さる』と『多数に浅く刺さる』の二項対立は成立しないよなと思います。
どんな人にもぶっ刺さる、めちゃくちゃ太い幹(=人間の普遍的な心理)がその歌手なり曲なりに通っていれば、どれだけ多くの人に聴かれようとも、決して消耗することなく、心の奥深くまで突き刺さっていくのだろうなーと。
ということで、なにかを創るっていうことは、決して『少数に深く刺さる』と『多数に浅く刺さる』の二項対立だけではなくて、『多数に広く刺さる』ものも存在するよということ、そして米津玄師さんとかKing GnuとかOfficial髭男dismとかは、最初からそれを志向して実際に実現していることが、めちゃくちゃカッコいいなという話でした!
P.S. 2週間前くらいの、Official髭男dismのPretenderをスゴさを書いているnoteはコチラ↓
このnoteだと、コンテンツの『縦』と『横』っていう、きょうのnoteとはまた違った表現と観点を持ち出しているので、このあたりぼくの頭のなかの整理も必要だ。
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