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「自分のやりたいことを見つける」の違和感

きのう、「解像度」と「スピード」の優先順位についてというタイトルのnoteを書きました。

きょうもそれにちょっと近い話をします。

というのも、下のチェコさんの『【9/16】大きな決断に意味はない』というnoteで、ぼくがこの1~2年でぼんやり考えていたことがとっても言語化されていたので、これを機会にぼくも改めて『決断』について少し整理してみようと思いました。


まず、上のチェコさんのnoteの一部を引用します。

では人生において大きな意味をなすのは何かというと、なんだか胡散臭い自己啓発書みたいになっちゃうけど、私の考えは「習慣」だ。人生に何回か行う程度の大きな決断よりも、小さくても毎日、何百何千回と行う習慣のほうが、よっぽど人生にあたえる影響が大きい。どこの大学に行くか、どこに就職するか、誰と結婚するかよりも、今日何時に起きたか、今日何を食べたか、何を見て何を書いて何を考えたか。そういう小さなことのほうが、人生を形作っている実感がある。


この『決断』の大して大きな意味はなくて、実は『習慣』のほうが人生を左右する割合が大きいという話、ぼくもこの1~2年でものすごく感じていることです。

というよりも、変な言い方になりますが、『習慣』ではなく、『習慣にしてしまうくらい(=自然と毎日のようにしたくなってしまうくらい)、自分が好きなものや、やりたいこと』のほうが、人生を左右するという言い方のほうが、的確かもしれません。

だから、最近よく言われている『自分のやりたいことを見つけよう』っていう話には、違和感を覚えることもあります。

『やりたいこと』って、そんな能動的に、そんな地下から掘り当てるようなものではなくて、もうすでにいまの日々の暮らしそのものが、『自分のやりたいこと』なんじゃないか、ということです。


例えば、『本当は漫画を描きたいけど、新卒から3年間、食品工場で働いている』という人がいたとして、それはまあ漫画を描きという気持ちがないわけではないでしょうが、その『漫画を描きたい度』と『いまの食品工場に務める日々を保ちたい度』を比べたときに、後者のほうが高いから、結果的に3年間、食品工場で働き続けているんじゃないでしょうか。

もしくは、もっと厳しい言い方をすると、『自分は本当は漫画を書いたらすごい漫画家になれるかもしれないけど、いまは我慢して違う職業に就いている』という可能性を残しておきたい度が高いという見方もできます。


本当に漫画を描きたい人は、もうとっくに描いています。

たまにものすごい異業種に転職した人とか、大企業を辞めてクリエイターとして活動し始めた人とかが『小さい頃からの夢を諦めきれず』みたいな文脈でメディアに取り上げられることがありますが、まさにあんな感じです。

一旦自分のなかで考えに考えて、理性を保った状態で下した大きな決断も、結局は『自分の本当にやりたいこと』の前では無力なんだなと、そういったドキュメンタリーを見る度に感じます。


あとは、自分の会社のなかを見ていても、『自分のやりたいこと』を一旦は少し抑えめにして、まず若いうちは社会人としての基礎スキルを身につけるために、会社から求められている役割を全うしようと思っていても、次第に覆っていたはずの『自分のやりたいこと』カバーが、(良い意味で)剥がれてきて、『自分のやりたいこと』と『会社から求められている役割』の重なるところで活躍するようになる、というケースを何度も目撃しました。


たぶん人間って、ストレスをそんな長期間に渡って耐えられる仕様ではないので、自然と『自分にとって居心地の良い感じ』に、生活を最適化させていくんだと思います。

その一日一日の積み重ねが結局のところ『人生』と呼ばれるものなので、すごい極端な言い方をすると、『世の中の人は全員、自分のやりたいことをもうすでにできている』のです(特に、生まれたときから一定水準以上の衣食住が保障されている人)。


あのときの『決断』によって、自分の人生が大きく変わるというよりは、そうやって日々の生活のなかでの『習慣』によって、人生は形作られているという考え方は、ぼくは人生における肩の荷が下りる感覚がするので、けっこう好きです。

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