つくり手の削った「命」が向かう先
この毎日書いてるnoteは、基本的にはぼくがその日に思ったことをそのまま日記的に書いているだけなので、1時間とか短いときには30分くらいとかしかかかりません。
その一方で、「ライター」としてお金をいただいているインタビュー記事などは、下調べから修正までを含めると、毎回10時間以上を費やしています。
この10時間が長いか短いかは一旦置いておいて、最近なぜかふと、「10時間」かけてつくった記事を「5分」くらいで読めるのって、なんかめちゃくちゃ虚しいなという感情が沸いてきました。
それに、例えばぼくだったら10時間「だけ」ですけど、書籍はどれだけ短くても「数ヶ月」かけて準備したものが、「数時間」で読めちゃうし、映画に至っては「何年」もかけて準備したものを、ぼくたちは「2時間」で観ることができます。
この「つくり手」と「受け手」の時間のギャップって、本来あってしかるべきものなので、ここに虚しさを覚えることに合理性は一切ないし、冷静に考えたらまあまあ的外れな虚しさなのですが、沸き上がってきたものは仕方がありません。
その時間の「非対称性」について何日間か考えていたのですが、きょうの朝、シャワーを浴びながら「あ、これからも精魂込めて記事をつくっていこう!」って改めて気合を入れました。
良くも悪くも、その「虚しさ」って、「1人の読者の時間」だけを考えていたからだったんだなって気付きました。
10時間かけてつくった記事の、仮に「1人の読者」の読了までの時間が「5分」だったとしても、その記事が「120人」に読まれれば、10時間になります。
それに、「1人の読者」の記事を読み終えるまでの時間が仮に「5分」だったとしても、読み終えたあとのどこかのタイミングで、その記事を思い出してくれたり、その記事がきっかけで読んでくれた人のなんらかの行動が変わったりしたら、それはもう「5分」みたいな単位では表現しきれない価値があります。
たぶん、4月から「組織」の一員として記事を書くことが増えて、良い意味でその記事の「生産性」的な側面を考えるようになったからこそ覚えた「虚しさ」だったのだと思います。
ただ、こうやって数字やロジックで考え直してみても、誰かの心に「深く」刺さったり、多くの人たちに「広く」届けたりすればするほど、その「10時間」というぼくの時間や労力は、報われるんだなと思って、一層気合が入りました。
別にこのnoteのほうは、ぼくが好きに書いてるだけなので、極論1PVでもいんですけど(ぼくが自分で読むから1PVは絶対にある)、他の人からお金をもらって書く記事はやっぱり、なんらかの「(目に見える)価値」を追い求めていく必要があります。
そういう意味で、今回、改めて自分のつくったものを「広く」「深く」届けていくことの大事さを再確認できました。
ただ、逆に言えば「広く」「深く」届けないと、せっかく自分の命を削ったものが、公開した瞬間にコンテンツの沼に沈んでいってしまって、永遠に誰かも見向きがされず、それこそ「虚しく」なっちゃうので、絶対に「広く」「深く」、受け手の心に突き刺してかなければなりません。
せっかくつくるなら、誰かの胸に「深く」響くものでありたいし、多くの人たちに「広く」届けていきたいなと、改めて思ったという話でした!
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