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「怒ること」と「期待すること」

もともとそんな人に対して声を荒げるほうではないけれど、特にここ半年くらい、人に対して『怒り』の感情を持つことがとても少なくなった。

いや、厳密に言うとその瞬間は『なんでやねん!』って思うこともあるのだけど、一瞬だけ『なんでやねん!』と思っても、それを表情や態度として出す前に深呼吸して『とは言え、相手にもなんらかの事情があったのだろう』と考えるようにしたら、大抵のことにはキレなくてよくなった。

というか、『嫌われる勇気』にも書いてあるのだけど(本を読んだぼくの解釈という前置きをしておくと)、人間にはそもそも『怒ってしまう』ということはないらしい。

『怒る』という感情はあるのだけど、それは自然発生的に湧き出るものではなくて、意図的に(そしてその目的の多くは相手をコントロールするために)、『怒り』という感情を利用しているらしい。

本中で挙げられていたその証拠にみたいな例として、子どもに大きな声をあげて怒っていた母親も、電話がかかってくると何事もなかったかのように明るい声で応対するシーンがあげられていた。

たしかに、似たような光景は小さいときに何度か見た気がする。


だから、つい最近の衝撃ニュースも、『まあ、本人もめちゃくちゃ考えに考えたうえでの決断だろうからな.......』と、なんとか受け入れることができた。

(もう少し前後の文脈を説明すると、この記事に出ている菅野は巨人軍の大エース。しかも、ニュースが出る2日前くらいに1回『行けます!』という記事が出ていたのに、直前になってやっぱりNGということになった。紙面を見た瞬間、『なにー!!!』と叫びそうになったけど、そういうファンの声もすべて覚悟したうえでの決断だろうなと思うと、少し落ち着いた)


ただ、怒らなくなって思うのは、『怒り』って、(本質的には違うと思うんだけど)『期待』と近い距離にはあるのかなということ。

期待しているから、できなかったときに、落胆と同時に怒りの感情がわいてくる。

つまり、『怒らない』というのは、よくも悪くも『相手に期待しないこと』と言い換えることもできる。

それで心穏やかに過ごせるのはとても良いことなのだけど、『期待』って、良くも悪くも人を動かすパワーがあると思っているし、『期待』によってあと1歩が踏み出せたり踏ん張れたりすることもあるから、ここは難しいとこだなと思う。

『期待しない』人間になるのも、『期待されない』人間になるのも、なんだかちょっと寂しい。

けど、どうにかすれば『心穏やかに過ごすこと』と『期待のある人間関係』も両立できなくはなさそうだから、両方のマインドを持って日々を過ごせるような心の持ちようを見つけたい。模索中。

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